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幸田露伴の「二宮尊徳⑤(細川侯)」

 分家の細川侯の藩医に中村玄順と云う者がいた。性質は小賢(こざか)しく、弁は立つが医業拙(つたな)く経済の道に暗く、相応の俸給を受けていながら次第に借金が嵩(かさ)んで遂に二十五両となり、どうしようもなくなったが、二宮先生と云う人が居て、常に無利息無利子で金を貸して人の艱難を救うと聞いて、その当時、江戸の西の久保の宇津家に先生が居られるのを幸いに、直ちに西の久保を訪れて、横山と云う者を仲介にして面会をお願いしたが、先生は会われなかった。玄順の来ることが再三になって、仕方なく横山のために会われたところ、玄順大いに喜び二十五両借財したい旨を云う。先生は顔色を正して、「人臣の道は身を捧げ心を尽くして主君の為を行うのみ、主家の事は一言も無く自己の安心を求めてわざわざ私を煩わすとは納得しがたい、求められる金額は僅か二十五両に過ぎないが、貴方の志は私の心に反するので応じられない、二度と来ないでもらいたい」と云えば、玄順はしばらく答えられずに居たが、ややあって自ら謝罪して、「先生の言葉で私の間違いを悟りました。以後も何卒(なにとぞ)教導のほどお願い申します」と立ち帰って行った。
 玄順の主君の細川侯は既に六十を越えられて居られるが子が無く、有馬侯の次男の辰十郎君(きみ)を養子にされているが、辰十郎君は英才があり領国が衰え上下の人々の苦しむのを憂えられて、或る時玄順に対して、「私は有馬の家で成長して苦難の何たるかを知らないで来たが、この家に来て負債が山のように有って、また領民が貧苦に在ることを知った。モシお前に何かこれを救う考えでも有れば申せ。」と云われたので、そこで玄順は平伏して、「衰えたものを回復し貧しいものを振興させるのは、非常な大人物でなくては出来ない事であります。私等のような愚人の能く出来ることではありません。ここに二宮金次郎と云う一人の俊傑がおります。この人を用いられれば或いは達成できましょう。元は小田原の近在から出た人で、徳あり智あり、能く事を成し、世間の風気(ふうき)を正します。大久保侯が用いられて桜町の開拓を任せられましたが、数年で之を達成されました。私はこの人を用いる以外にないと思います。」と言上したところ、辰十郎君は大いに喜ばれて直ちに玄順を先生の許に派遣されたが、先生はこの時すでに桜町に帰られた後で、玄順がむなしく帰って此の事を告げると、細川侯もまた辰十郎君から聞いて先生を頼もしく思われていたので、「密かに野州まで行って、ぜひ二宮の教えを受けて参れ」との侯の命令である。そこで玄順は延(のぶ)の地蔵(栃木県芳賀町の城興寺・延生(のぶ)地蔵尊か?)に行く振りをして、君命で桜町へやって来た。
 玄順が桜町に着いて先生に会い、細川家の疲弊の事、領内困苦の事、老侯と若君の仁心の事、群臣が再興の事業に異議を差し挟む恐れのある事、細川家の負債が既に十万両余りになる事などを一々詳細に語って、謹んで先生の教えを頂きたい旨を切に願えば、先生も仕方なく諄々(じゅんじゅん)と主君たる者の覚悟、家臣たる者の心得、節約の必要、民の心を改める必要、分度(予算)の法などを説いて聞かせ、「領国の十年分の貢税(こうぜい)の古帳を持って来るように、私が経済の道を明らかにして再興の計画を立てて与えよう」と云われる。玄順は大いに喜び、国に帰って報告し、君命により十年分の年貢の台帳を持って再び桜町へ赴いた。
 玄順が再び来ると、先生は計算の人を集めて日夜台帳を調べ、豊年凶年を平均(なら)し、それを取って出入の分度を定め、盛衰の理由を解析し、余財が出るよう計画を立て、民を救い弊害の根源を断つ方策を立て、数十日を掛けて数巻の書にして之を玄順に与えられた。玄順は之を持ち帰り君公に提出し一々先生の言葉を添えて申し上げると、老君も若君も之の書を熟覧し感歎され、二宮先生の徳を慕仰されて、富国安民の仕法を先生に一任された。しかし先生は義理を堅く守られて、「私は大久保侯の命令が無ければ動けない」と辞退されたので、細川侯は大久保侯に照会されてから、再び復興の事を求められた。ここに於いて先生は、数年にわたって先生の下で修業した大島某を派遣し、役夫数十人と共に常陸の国(茨城県)の矢田部と下野の国(栃木県)茂木(もてぎ)の二箇所に行かせ、徳政を布いて農業を勧め盛んに復興の道を行わせたので、人民は大いに悦んで元気を揮って働き、計画以上の米や粟を千五百俵をも産出するようになって、負債を返済した上で数万両を得たと云う。(⑥につづく)

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