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幸田露伴の小説「幽情記② 師師」

幽情記② 師師

 「水滸伝」は支那(中国)小説の巨編である。文章が優れていること描写が巧みなことは多言を要しない。ただその全編百二十回は豪傑の話が主で、女子の情を語ることは少ない。もともと「水滸伝」は山東省の大盗賊が主人公なので勢いこうなるのは自然であるが、水滸伝もまた女子を語らないことはない。魯提轄(ろていかつ)に鎮関西(ちんかんせい)を討たせたのは、その夫人が美しかったからで、およそ婦人が英雄豪傑に禍(わざわい)や福を贈ったり、左右されたりする話は少なくない。ただ「水滸伝」中の女子の多くは脇役で、作者は軽く触れるだけで深く留意することがない。このため幾らかの顔貌(かおかたち)や容姿の描写はあるが、風貌や性格がはっきりと読者に分かり、事情や光景が明らかに文章で表現されたものは稀である。その中で作者がやや力を入れて伝える数人の者は実に「水滸伝」中の妖花であり奇珠である。即ち、その一は閻婆惜(えんばしゃく)である。閻婆惜は軽薄な女子で多く語ることもない。しかしながら全編の主人公である宋江(そうこう)を怒らせて殺され、そのことで宋江の身を危うくさせる。その嬌態、鋭い言葉は、憎み厭うべき婦人の一種の典型である。その二は潘金蓮(はんきんれん)と王婆(おうば)である。潘金蓮は淫らで気が強い。支那史上このような婦人は少なくない。王婆は狡くて貪欲、支那の俗諺に三姑六婆を近づけるなかれと云うのも、実にこのような者があるからであろう。その三は揚雄(ようゆう)を巻き添えにした潘巧雲(はんこううん)である。その四は雷横(らいおう)を苦しめた白秀英(はくしゅうえい)である。その五は一丈青扈三娘(いちじょうせいこさんじょう)。その六は母大蟲顧大嫂(ぼたいゆうこたいそう)。その七は母夜叉孫二娘(ぼやしゃそんじじょう)である。この三者は或いは美人、或いは不美人であるが、共に皆梁山泊(りょうざんぱく)中の人である。その八は張清を悩ませて恋の病をおこさせ、反乱軍頭目の田虎を殺し両親の仇を取った孝勇貞美な瓊矢鏃(けいしぞく)こと瓊英(けいえい)である。その九は無頼で大胆、粗豪で獰猛、王慶を助けて乱を起こし、村婦の身で楚王の妃と称した段三娘(だんさんじょう)である。このうち白秀英、顧大嫂、孫二娘などは記載も少なく簡単に記されているに過ぎない。この九女子以外に本編の人物に直接は関係しないが、実に百八人の豪傑の運命を大変動させて、宋江等に身を梁山泊に潜めさせ国家に忠義を尽す道を開かせた「水滸伝」中第一の美人が、東京(とんきん)遊郭(ゆうかく)の花魁(おいらん)の李師師(りしし)である。李師師は実にその家の看板に書かれた五文字のように、正にこれ歌舞神仙女(かぶしんせんのじょ)、風流花月魁(ふうりゅうかげつのさきがけ)である。
 李師師はどのような女性か、前に挙げた九婦人は「水滸伝」中にその姓名があり、実世間に於いてもそのタイプは散見するといえども、皆架空の人である。李師師もまた架空の人であろうか。
 云う、「水滸伝」百二十回の大作は、大抵皆これ架空から選び取って物語を作る。コレがその血沸き肉躍り、愛され賞されるところである。しかしながら、事実から取られたところが無いことも無い。宋江等の名は「宋史」にあって、方臘(ほうろう)の乱の事も史上にあった実際の事である。およそ歴史小説は、作者が想像を逞しくして虚実を織り交ぜて面白おかしく作る。しかし、人はその作り物であることを忘れて、実際のように感じることを望む。即ち実で虚を覆うことが必要である。そのため「演義三国志」は董卓・曹操・劉備・孫呉の事跡に本(もと)づいて書かれ、「女仙外史」は建文帝の逃亡と唐賽児(とうさいじ)の乱を語る。「水滸伝」に於いては蔡京(さいけい)・楊戩(ようせん)・童貫(どうかん)・高俅(こうきゅう)の悪事や張叔夜(ちょうしゅくや)・侯蒙(こうもう)の忠義を記す。これは皆大筋を偽らないことで読者を納得させ、このような人が居てこのような事があることを思わせる。師師が皇帝に対して宋江等のために、宋江が忠誠心を抱きながら冤罪に処されたことを奏上する一段は、実にこれ本伝中の肝心なところ最も重要なところで、もし師師が架空の人で有ったならば読者の感動は得られず、師師が実在の人であればこそ、観客は手をたたいて絶賛する。そのために作者は、卑賎な身で皇帝の愛を得ている李師師と云う女性がいて、その稀有な話が世に知れ渡っていることを幸いに、これを借りて宋江が招安(しょうあん・賊軍であった罪を赦されて官軍に組み入れられること)を受ける件の仲立ちをする。李師師は実在の人である、架空の人ではない。師師が宋江のために助力したかどうかは、もとより語るに足りないことであるが、師師が遊女の身で皇帝の寵愛を得たことは真実である。今これを語る。
 李師師は七十回本の「水滸伝」には出て来ない。七十回本を金聖歎(きんせいたん)は古本であると云うが実際は古本ではない。聖歎が改作して百二十回本の七十回以降を削除したものである。百二十回本の七十二回で初めて師師が現れる。これが七十回本に師師が現れない理由である。百二十回本で師師は、第七十二回、第八十一回、第百二十回に登場する。

 第七十二回では、宋江が柴進(ししん)や燕青(えんせい)と共に、銭や錦の贈り物を持参して師師の家を訪れる。李逵(りき)がこれに随う。宋江は師師が皇帝の寵愛を得ていることを利用して、師師の口から自分等の冤罪を皇帝に奏上して貰う積りであったが、李逵のしくじりで却って危機を招いて梁山泊に逃げ帰る。また此の回では、燕青の聡明で敏巧な人柄が師師の知るところとなって後章の伏線となっている。
 第八十一回は、「水滸伝」中異色の文章で、燕青が再び師師の家に行って、前回の騒動を謝罪して、沢山の金銭や宝石を贈って歓心を買い、次いで酒間の献酬と歌吹の中に、好漢の意気精神と浪子(ろうし・遊蕩青年)と世評される自己の本領を発揮して師師の愛を惹き、ついには師師は玉のような手で燕青の入れ墨を撫でるに至る。しかも燕青の怜悧は師師を姉と立ててその愛を止めその欲を制し、転じて師師の仲介によって皇帝に親閲し、終に朝廷の権臣達の奸計を訴え、且つ浪人達の忠義の心中を述べて、梁山泊の百八人の豪傑達が招安を受ける要因をつくる。燕青が「水滸伝」中最も巧妙な光景を描き出すのは、実にこの一章である。
 第百二十回は、宋江が百戦苦労の余りに、皇帝からの賜杯を毒酒と知りながら飲む。飲んでここに死んで悲壮凄涼の感を人に与える。毒酒は奸臣たちの仕業である。皇帝は夢で宋江の死と奸臣たちの悪企みを知るが、悟るところあって、また師師が傍らから宋江等のために奏上したこともあって、宋江等は最後には国家によって祀(まつ)られて、「水滸伝」はここに終わる。水滸の英雄の決起と結末に師師の係わりは重く且つ大きい。

 李師師の「水滸伝」での有様はこのようである。その英雄たちとの係わりが真か否か、または真否が交わるか、それとも全ては架空の話なのか。宋江等の事は「宋史」や「宋鑑」等に出ていて本づくところが無いことは無い。またその三十六人の名は多少の違いはあるが「宣和遺事(せんわいじ)」にも記載されている。「宣和遺事」は小説なので史籍とは言えないが、「水滸伝」が「宣和遺事」を淵源とすることは前人が既にこれを言っている。「宣和遺事」では李師師はどう述べられているか。
 「宣和遺事」二巻は宋の徽宗(きそう)と欽宗(きんそう)の世の事を記すこと二百七十余条、明の胡応麟(こおうりん)は一読して元の時の村里の俗説だろうと云うが、多くの人は宋人の作としている。清の学山海居(がくさんかいきょ)主人は杭州で得た古本の巻中の惇の字が、宋の光宗の諱(いみな)を避けて惇に作られたもので、正に宋の時代の作であるとしている。
「水滸伝」の刊本は巻頭に「宣和遺事」の水滸に関する条(くだり)を挙げているが李師師を記す条をあげていない。このため「宣和遺事」の全巻を読んでいない者は、「宣和遺事」に師師の記事の多いことに気付かずに、「水滸伝」の師師の事はでっちあげだとして、「水滸伝」を語る者の多くは「宣和遺事」に言及しない。「宣和遺事」が師師の美貌を「水滸伝」に先だって語ることの少なくないことを語らない。
 「宣和遺事」は記す。高俅等は徽宗に行楽を大いに勧め、変装して微行(おしのび)をさせ東京(とんきん)の名妓の李師師の家に宿らせる。去るに当たって、帝は帝の鮫綃(こうしょう・うすぎぬ)の帯紐を解いて証拠として師師に与える。師師には武官の賈奕(かえき)と云う情人がいた。賈奕は七夕の日に佳酒を持って師師を訪れたが、門は堅く閉ざされて人の迎えも無いので怒り帰って、その翌日師師を詰問したが、事情を聞いて大いに驚き、また鮫綃を見ていよいよ驚き、嫉妬と落胆で心はズタズタになって卒倒する。師師はこれを助けてやさしく怒りを宥め、佳酒によって悶えは解けたが、賈奕はただただ長嘆する。たまたま筆と硯が傍らに在るのを見て、紙を開いて思いを述べて南郷子(なんきょうし)の詞(うた)を作る。

 末尾に、

  鮫綃を留下(りゅうか)して宿銭に当つ
 (鮫綃を置き遺(のこ)して宿賃に当てる)、

の句があった。師師は人の目に触れることを恐れて、これを化粧箱の中に入れる。賈奕は師師に対して「貴方は天子の寵愛を受けている、私はもう訪れない方がよいと思う」と云う。二人の話は尽きない、日は次第に暮れようとして、そこへ高俅が早くも来る。賈奕は驚いて去ろうとするが高俅に見つかる。高俅は大いに怒って配下の者に賈奕を捕えさせ、大理寺の監獄に送ろうとする。師師の母がこれを見て、「この人は師師の兄です。洛陽に永年行っていたが、たまたま今日帰って来て小宴をしていただけのこと、何で高貴な方の御出を待つ身の私等が別人に接しましょうか。」と説いて辛くも賈奕を逃がすことができる。
 徽宗がやがて来て、歓楽は昨夜のように、師師が先ず寝室に入る。その間にフと見ると化粧箱の中から物が少し顕われている。開いて読むとその末尾に、鮫綃を留下して宿銭に当つの句がある。もとより聡敏な徽宗のこと、何のことかと理解されて苦笑されたが、口には出さずまた箱に収められた。これより二タ月ばかりは、夕方に来ては朝に帰って、恩寵はいよいよ加わる。
 賈奕は七月八日に師師と別れてからは、逢う機会も無く連絡の方策も無く、心配で、心配で、悶々鬱々と痩せ衰えてしまった。たまたま陳州の通判(つうはん・副知事)をしている宋邦傑(そうほうけつ)と云う者が、賈奕を訪れその痩せ衰えた姿を見て、その理由を問う。賈奕も隠しきれずその衷情を訴えれば通判は笑って、「御身(おんみ)は元来聡明な人ではないか、何で一婦人のために身を誤ろうとするのか」と諫める。しかし賈奕の思いは変わらない。「帝は貴きこと第一の人なのに、師師の美貌を恋給う、まして小生は一愚夫、この痴迷(ちまよい)を嘲り下さるな。」と云うのを聞いて憐れに思う。「では仕方ない、御身のために力を貸そう。小生の叔母婿の曹輔(そうほ)は現任の諫議太夫(かんぎたゆう・天子を諫める役職)をしている。帝の行いも徳を欠くことがある。諫官の職にある者の務めだ。曹輔にこの事について一言奏上させて微行を止めさせよう。帝が微行されなければ御身は元のようになれるだろう」と云う。宋邦傑は曹輔に会って、徽宗が夜毎に遊女の家に宿られることを説く、曹輔はこれを聞いて帝の失徳は諫官の黙するところではないとして、慨然として「表(ひょう)」を奉(たてまつ)って微行を諫めた。徽宗はこれを見て愧(は)じ、かつ怒り、曹輔を免職にする。諫議太夫の張天覚(ちょうてんかく)が続いて奏上して「願わくは陛下、微行をお止め下さい。曹輔の言葉は過ぎたか知れませんが、心から陛下を思う余りのこと」と云う。徽宗は已むなく宮中を出ないこと数日になったが、師師を思う情(おもい)は止め難く、楊戩を師師の家にやって、約束を違えてここ数日行かないでいるが心配するなと伝える。師師は徽宗がここ数日来ないので怒りを発して、酔いを装って無礼に応対する。楊戩がフと眼を上げて、師師の机の上を見ると手紙がある。開いてこれを見ると賈奕からの手紙で、
 
 私は、七夕の夜に別れて後、また重九(ちょうきゅう)の節句に逢う。日月はページをめくるように経つが、顔を会わす機会も無い。今聞くところでは帝は忠臣の諫めを入れて、深く禁中に居られて微行されることは無いという、これ我れ等両人にとって幸い、今夕は良い機会、無駄にはできない。未だ返事がないが吉報を待つ。

とある。楊戩は大いに怒り、「既に帝の寵愛を受けながら、また密かに賈奕と会おうとするとは」と、その手紙を奪って帰れば、師師母子は悔やんでも及ばず、魂も身を離れるほどに戦(おのの)き懼れた。楊戩が賈奕の手紙を差し出すと、徽宗は憤激して直ちに賈奕を捉えて「下郎、汝(なんじ)は詞を作って朕を謗(そし)るのか」と一喝すれば、賈奕は御白州に俯伏して、「微臣(びしん)がどうして陛下を謗りましょう」と申す。徽宗言う「汝、謗らずと云うならば申し述べよ、この鮫綃を留下して宿銭に当つという詞は、これは誰がした事か」ここにおいて賈奕の魂は砕けて何も云うことができない。徽宗は、「汝、流言して朕を謗る。正に三族を成敗すべし」と宣言して、甄守中(けんしゅちゅう)を監殺官にして賈奕を殺させようとする。
 甄守中が賈奕を捉まえて刑場に行く道で張天覚に逢う。天覚は「今日殺される者は何の罪を犯した者か」と問う。守中が天覚に耳打ちして委細を告げる。天覚は守中に対して「汝、刑を暫し猶予せよ」と言い置いて馬を飛ばして宮中に入り急遽徽宗に見(まみ)えて、「陛下は貴い天子であります。富は四海を有し給い、祖宗万世の大いなる位を承(う)けて天下人民の見守るところであります。一挙一動も軽んじはいけません。しかるに口惜しくも、小事に誤り正義無き事を為されますとは何事でありますか、刑罰は正しく無ければ民を治めることはできません。民が怨めば禍(わざわい)は不測に起きましょう。それでなくとも今天下の難しい時に何故に聖慮を小事に用いなされますのか、願わくは御情(おなさけ)を以て、曲げてお許しなされ給え。」と諫めれば、佞臣(ねいしん)の楊戩が傍らから賈奕が作った彼の南郷子の詞を天覚に見せる。徽宗は言葉も激しく、「卿はこの詞を見ても怒ること無いか」と云う、天覚は少しも動じることなく、「畏れ多いことですが、これは陛下の御過ちでございます。陛下が万乗の尊き身を以て、巷の賤しい家に入り給わなければ、このような侮りをうけることがありましょうか。いわゆる君君足らざる時は臣臣足らざると云うもの、陛下自ら御過ちを悔い給いて然るべきです。何で人を咎め給うことがありましょう」と辞色厳正に直言すれば、徽宗も愧(は)じて反論できず、「では卿の直言を入れて、賈奕の死を赦そう。」と言われて、罰して広南瓊州の司戸参軍に左遷させる。また一方では殿頭官を遣って、李師師を宮中に入れて夫人の衣装を着けさせ、玉座の傍らに侍らせて天覚に言って、「朕は今夫人と共に殿上に坐す。卿は階下に立ちて、能く礼法に適えるか」と問う、天覚涙を垂れて悲しみ申す。「陛下、礼法を見てどうなされます。臣は今どの顔をして殿中に立てましょう。願わくは職を辞して田里に帰えらん」と、徽宗いよいよ怒って衣を払って起ち、次の日天覚を勝州の太守に左遷する。
 天覚は都を出る時に南郷子の詞を作り、行くこと数十里にして路辺に老牛が地に臥しているのに逢い、長嘆一声、前詞によってまた一首の南郷子調の詞を作る。詞に云う、

  瓦の鉢と磁(やきもの)の瓶(かめ)と、
  間(かん)に白雲に伴(ともな)い 酔いて後休む。
  得も失も事の常なり 貧もまた楽し。
  憂える無し、
  運去って英雄も自由ならず。
 (瓦の鉢と磁器の瓶の間に、白雲の下に酔って休む。得失は常のこと貧もまた楽しい。憂えることは無い、運が無ければ英雄も思うようにはいかない。)

  彭越(ほうえつ)と韓侯(かんこう)と、
  世を蓋うの功名も 一土丘なり。
  名と利と 餌ありて 魚餌を呑む、
  輪(つりいと)収まる、
  脱するを得たるは なんぞ能く更に鉤(はり)に上らむ。
 (彭越と韓侯の功名も今は墓の土。名利の餌を呑めば魚も捕まる、餌を逃れれば何で二度と捕まろうか。)

 天覚が去った後は、朝廷の綱紀は緩み乱れて、蔡京・童貫の徒や高俅・楊戩の輩は徽宗を持ち上げ、李師師を李明妃にして、金線巷を小御街と改めて、売茶(ばいさ)の周秀(しゅうしゅう)なども初めに師師を紹介した功績を以て泗州(ししゅう)の茶提挙(ちゃていきょ)とされる。宣和六年のことである。

 以上は「宣和遺事」前集の記すところであるが、後集でもまた記す。劉屏山(りゅうへいざん)の詩があり、云う、

  梁園の歌や舞や 風流足る、
  美酒は刀の如くに 愁いを解き断つ。
  憶い得たり 少年 楽事多かりしを、
  夜深くして 灯火 樊楼(はんろう)に上る。
 (梁園の歌や舞は風流である。美酒は刀のように愁いを解き断つ。憶い出す少年の時、楽しい事の多かったことを。夜も深くなってか灯火が樊楼に灯る。)

 樊楼は即ち豊楽楼の異名である。上階に御座があり、徽宗は時に師師と此処で宴飲する。
 金の軍隊が都に攻め入り徽宗が退位すると、蔡京や高俅等の取り巻き連中は失墜し、李師師もまた明妃を廃されて庶人となる。師師はその後、湖湘の地に落ちぶれさすらい、ついに商人に身を寄せる。よって自ら詩を作って云う、

  輦轂(れんこく・都)の繁華 事傷(いた)む可し、
  師師老いるに垂(なんなん)として 湖湘を過ぐ。
  縷衫(るさん) 檀板(たんぱん) 顔色無し、
  一曲 当年 帝王を動かししも。
  (都の賑わいも今は傷ましく寂びれて、師師は老いに迫られ、今湖湘を過ぎる。一曲によって当時の帝王を感動させた縷衫も檀板も今は顔色無い。)

 「宣和遺事」に於ける李師師の結末は、そのままで絶好の詩題である。「宣和遺事」の記すところは虚実相半ばするので全てを信じることは出来ないが、徽宗が天子の尊さを以て東京(とんきん)の一遊女を愛した事は、実際にあった事である。「水滸伝」の作者がこの李師師を使って、「水滸伝」の後半の開始としたのは適切である。「宣和遺事」の記事と「水滸伝」の記事を比べると、その大いに異なる点において「水滸伝」が「宣和遺事」に負うところを察することができる。
 既に「宣和遺事」における李師師を説いた。「宣和遺事」以外の書の小説稗史以外のものに於いて師師の事跡はどうか。

 張天覚が蔡京と仲が悪かったことは事実である。師師のことで職を辞した事は虚構である。天覚は蔡と仲が悪かったのは事実だが、その人柄は「宣和遺事」の記すようでは無い。「宋史」三百五十一巻の記すところでは宣和三年に年七十九才で死去している。「宣和遺事」の記すところでは宣和五年とあるが、その誤りであることは云うまでもない。

 「宣和遺事」や「水滸伝」以外で李師師のことを伝えるものに元の屈子敬(くっしけい)の雑劇一篇があって、題して「宗上皇三恨李師師」という。子敬は元の年号の至順以前の人、その作る雑劇には、「田単復斉」・「孟宗哭竹」・「敬徳撲馬」・「相如題柱」などがあり、「録鬼簿」を著わした鐘嗣成と同窓である。「三恨李師師」の戯曲は、今は伝わらないのでその概要を知ることが出来ないが、題名から考えて記するところを推知すべきである。元の人は既に徽宗と師師を用いて雑劇を作る。これによって元の時において、既に徽宗と師師との艶話が人口に膾炙していたことが分かる。

 李師師は実際に宋の徽宗時代の名妓である。そして徽宗が微行してこれを寵愛した事も事実である。ただ賈奕の事や張天覚がこれを諫め奉って職を辞したことは信じることが出来ない。小説や俚聞の信頼できないことは多言を要さない。であるが、「宣和遺事」が賈奕のことを記すのは根拠が無いことでは無い。周邦彦(しゅうほうげん)の事がこれである。
 周邦彦、字(あざな)は美成(びせい)、銭塘省の人である。「宋史」巻四百四十四に伝がある。元豊の初めに都に出て、「汴京賦」を献じて神宗に知られて仕え、徽宗の時には秘書監となり、徽猷閣待制に進み、後に順昌府の知事となって死去する。「虹亭詞談」巻六の記に、周邦彦が師師の家にいる時に徽宗が来たのを聞いて床下に隠れる。徽宗自ら初物の橙(みかん)を一ツ携え来て言われる。「これは江南から初めて届いたものである」と、そして師師と戯れ語らい合う。邦彦が悉くこれを聞いて、「少年遊」の詞を作る。詞に云う、

  并(へい)の刀(はもの)は 水の如く、
  呉の塩は 雪に勝り、
  繊(ほそ)き指 新しき橙(みかん)を割(さ)く。
  錦の幄(とばり)は 初めて温かに、
  獣香(ねりずみ)の香りは 断えず、
  相対して坐りて 笙を調(しら)ぶ。
 (よく切れる并州(へいしゅう)の刃物で、雪より白い呉国の塩を振りかけ、細い指で新しいミカンの皮を剝く。暖かい錦の幄(とばり)の中に、獣炭の香(かおり)は絶えない。向かい合って座り、笙を奏でる。)

  低声(ひくきこえ)に問う 誰(いずれ)の辺(ほと)りに向ってか宿(とど)まると、
  城上は已(すで)に三更なり、
  馬は滑らん 霜は濃(あつ)きなり、
  休み去るに如かず、
  直(ただ)自(さえ)に 人の行く少(まれ)なり。
 (小声で訊く、何処辺りに宿るのかと、城の上の鐘は既に真夜中を告げた。霜が厚くて馬は滑ろう、休むほかないだろう、ただでさえ行く人も稀であれば。)

(注、この詞は、「詞談」や朱竹坨の「詞綜」では割を破に作り、誰の辺を誰の行に作り、笙を筝に作り、直自を直是に作るが、今はこれを採らない。宋の曹慥の撰した「楽府雅詞」に依る。并州は刃物を産出し、呉国は良い塩を産出する。獣香は獣炭の香か。炭を練って獣形を作って酒を温めた故事を用いたのである。或いは獣炉の香か。美人が笙を玩ぶのは当時の習慣で、筝を玩ぶことは却って少なかった。)

 その後、師師がこの詞(うた)を歌ったところ、徽宗は誰が作ったのかと問われた。師師が邦彦の作であることを云うと、徽宗は大いに怒って、そのことで邦彦に異動を命じて地方へ追放し玉う。
 一二日して徽宗がまた師師の家に微行されたが遇えなかった。初更になって師師が帰って来る。愁いの眉、涙の眼、憔悴のほど思いやるべし、「どうしたのか」と徽宗が問うと、「邦彦が罪を得て国を離れますので、別れの盃を交わしていました。そのため帝の来られたのを存じませんでした」と答える。徽宗が「詞は有るか」と問われると、「蘭陵王の詞があります」と云う。「一度歌ってみよ」と徽宗に言われ、師師は酒を奉って歌う、

  柳の蔭 直し、
  煙の裏(うち) 絲々(しし) 碧(みどり)を弄す。
  隋堤の上 曽(かつ)て見つ 幾番(いくたび)か
  水を払い 綿を翻(ひるがえ)し 行色(たびだち)を送れるを。
  登臨して 故国を望む、
  誰か識らん 京華(みやこ)の倦(う)める客(ひと)、
  長き亭の路 年(としどし)来たり 歳(としどし)去りて、
  柔らかき枝を攀(よじ)折(お)りて 千尺にも過ぎぬ。
 (柳の蔭は真直ぐに、靄(もや)の中を細い碧(みどり)の枝を揺らせて続いている。この隋堤の柳は水を払い綿を飛ばして、曽て幾番(いくたび)の旅立ちを見送ってきたことだろう。山に登って故郷の方(かた)を望むが、都に住み厭きた人の在ることを誰が知ろう。長い旅路の間に、年は来て年は過ぎ、柔らかい枝を手折って旅人を送った柳の枝も千尺を超えた。)

  間(かん)に尋ぬ 旧(ふり)にし蹝跡を。
  又 酒は 哀しみの絃(いと)を趁(おいか)け
  灯(ともしび)は 別れの席を照らし、
  梨の花 楡の火 寒食催す。
  一箭(ひとすじのや)の 風快(はや)く
  半篙(なかばのみさを)の 波暖(あたたか)に
  頭(こうべ)を廻らせば迢遞(はるかはるか)に 便(たちま)ち数駅なり、
  人を望むに 天(みそら)の北に在り。
 (そぞろ昔を偲んで、曽遊の地を訪ねる。今もまた、酒は哀しみの絃(いと)を追いかけ、灯(ともしび)は別れの席を照らしている。この梨の花の季節に楡の枝の薪(まき)の火で、人は寒食を催して旅立って行く。舟は一陣の風を受けて速く、舟竿半分ほどの波は暖かく、振り向けば忽ち数駅を過ぎて、見送る人は遥か天(みそら)の北に在る。)

  悽(うらさむ)く惻(むねいた)くして 恨み堆(つも)り積る、
  漸くにして 別れの浦は 縈(めぐ)り廻(めぐ)り、
  津の 堠(いちりづか)は 岺(こだか)く寂(ものさび)たり、
  斜陽(かたぶけるひ)は 冉々(ぜんぜん)として 春 極(きわまり)無し。
  念(おも)う 月の榭(うてな)に手を携え
  露の橋に笛を聞きしを。
  前事(まえのこと)を追(あとより)思えば、
  夢の裏(うち)に似て、
  涙 暗(ひそか)に滴る。
 (悲しみに胸は痛み恨みは積り、やがて別れの浦を廻り行けば、渡し場の一里塚は冷たくひっそりとして、斜陽がゆっくり沈み行く春は果てしない。月の夜に楼の上で手を取り合い、露の橋で笛を聞いた昔を思い出せば、以前のことは夢のようで思わず涙が滴(したた)る。)

 歌い終る。徽宗大いに喜んで、また邦彦を召し返して、音楽所の長官に任命する。
 「宋史」に記す。邦彦は才を鼻にかけ慎みが無いので、故郷では人望が無かったと云う。また邦彦が姑蘇(こそ)に住んでいた時、妓女の岳楚雲(がくそうん)と愛し合ったが、後に楚雲は他人に随ったので、邦彦は楚雲の妹と会い詞を作って思いを述べる。楚雲はこれを読んで感泣すること日を重ねる。ということが「夷堅支志」に記されている。思うに邦彦は放縦な才人で、洒脱なことを好む者のようである。であるならば、師師と知り合って詞によって罪を得て、また詞によって恩を得たことも、あるいは実際の事であろう。その音楽を好み、自身作曲をして、楽譜に長短の句を作し、その詞韻の清らかで豊かなことが世に伝わると「本伝」に記されている。邦彦の詞を評して陳質斉(ちんしっさい)は富艶で精巧と云い、張叔夏(ちょうしゅくが)は力強く重厚で穏やかな品があると云う。勿論宋詞壇の一大家であり、その「清真居士片玉詞」三巻は今も現存する。「虹亭詞談」は事実無根の話ではない。師師と邦彦の事は、思うに宋人の説に本づくものであろう。
 「宣和遺事」の記す賈奕と師師のことは、思うに邦彦と師師とのことを換骨変装したものか、あるいはまた別に一つの物語があるのか、今にわかに断定はできない。ただ憶測すれば、邦彦のことがあって、そして後に「宣和遺事」の作者が賈奕のことを捏造したように感じる。
 周邦彦とは別にもう一人の邦彦がある。即ちこれが李邦彦である。李邦彦、字は士美、懐州の人、父の浦は銀細工師である。才知優れ風姿美しく、文を作れば敏にして巧みで、しかも都で成長したので卑猥な事にも通じ、応接は敏捷で、謔笑や歌唱を善くし、蹴鞠(けまり)を能くする。常に市街の俗語を使って辞曲を作り、世俗の賞賛を博す。如才ない人柄で、大学生に推挙され大観二年に及第して、それより累進して中書舎人翰林学士承旨となり、宣和三年に尚書右丞を拝命し、五年左丞に転じる。王黼(おうほ)と敵対し蔡攸(さいゆう)や梁師成(りょうしせい)等と共謀してこれを斥ける。金(きん)の軍が都に迫って来ると国土を割譲して難を避ける策を執ったので、大学生陳東(ちんとう)等数百人が宣徳門に伏(ふ)して書を奉(たてまつ)って、邦彦等の徒を国家の賊として斥けることを請う。その宰相の器では無いことが分かる。初め未だ地位の低い時分は気ままに過ごし自ら李浪子と称す。宣和六年少宰(しょうさい)に命じられるに及んで、ご機嫌取りが位についたので、都の人々は浪子が宰相になったと云う。伝は「宋史」巻三百五十二に見える。
 「宣和遺事」は記す。李邦彦は次相として蔡攸の機嫌を取り、宮中に宴会のある毎に自ら道化たことをして交際し、市中の滑稽な言語で笑いを取る。また記す。ある日、宮宴に於いて薄衣(うすぎぬ)を着て龍文(りゅうもん)を体に描き、正に技芸を演じる時にその衣を脱いで入れ墨を見せる。また記す、帝が杖を挙(あ)げて笞打ちしようとすると木に登って逃げる云々と、軽薄なことも甚だしい。真に浪子の姿である、どこに次相の風格があるというのか。
 浪子は遊蕩青年というようなことであって、そして遊蕩青年の多くは愚かではないので、浪子の語には利口で抜け目ない人の意味がある。「水滸伝」中で俊敏第一の燕青に浪子の綽名があるのもその理由からである。「水滸伝」の浪子は架空であるが「宋史」の浪子は事実である。梁山泊の浪子は虚であるが都の浪子は実である。架空の浪子は愛すべく、実際の浪子は憎むべく、虚の浪子はコレ忠臣で、実の浪子はコレ奸臣である。アア何んとその奇妙なことか、浪子燕青、美人李師師、徽宗皇帝、詞によって罪を得る賈奕、詞人周邦彦、浪子李邦彦、私はここにおいて一連の環が、環々連なってしかも接せず、環々互いに動いて互いに離れない状況を観る。
 李師師の艶美が当時評判だったことは、別に張子野の詞があって、これを証明する。張子野の時に「師師令」の一詞体ができて今に伝わる。「師師令」は張子野が創始したもので、李師師に贈ったことでその名を得たものである。張子野の名は先(せん)、呉興の人、太宗の時に高官であった張遜の子孫である。「宋史」に名が残るが事跡の記録はない。しかし詞名は甚だ高く、「天仙子」の詞の中の「雲破れ月来たって花影を弄す」の一句は当時喧伝され、「心中の事、眼中の涙、意中の人」の句から得た張三中の称号は幾百年に亘って伝わる。その著書に「子野詞」一巻がある。蘇東坡がこれを評して言う、「張子野は詩筆老妙であって、歌詞はその余技である。華州西渓の詩に云う、浮萍(うきくさ)の破れたる処、山の影見え、小舟の帰る時、草の声聞ゆ・・と。(中略)、このような詩の類で張子野を評すべきである。しかしながら世俗はただその歌詞を称える」と。晁無咎(ちょうぶきょう)は、「張子野と耆卿(きけい)の名は同格である、しかしながら張子野の詞韻の高さは耆卿に無いところである。」と評価する。実に張子野は一詞雄である。詞に云う、

 香鈿(かおりよきかみかざり) 宝珥(たからのみみかざり)、
 払う 菱(はながたの)花(かがみ) 水の如し。
 妝(よそおい)を学び 皆言う 時の宜しきに称(かな)うと、
 粉(おしろいの)色(いろ)には有り 天然の春(はるの)意(おもむき)。
 蜀綵(しょくのにしきの)衣(きぬ)長がくして 勝(かみかざり)未だ起こさず、
 縦(まか)す 乱霞(らんか)の地に垂るるに。
(香りのよい髪飾りと宝石の耳飾りを、水面のような鏡に映す。粧(よそおい)を見て皆は時期にピッタリと云う、化粧には春の趣が自然と漂う。蜀錦の長い衣装を着て、髪飾りを着けない髪を、乱霞の地に垂れるままに任す。)

 都城(みやこ)の池苑(ちえん) 桃李 誇る、
 問う 東風 何似(いかん)と。
 須(もち)いず 扇を囘して 清歌(きよきうた)を障(さ)わるを、
 唇一点 朱(あけの)蘂(はな)より小さし。
 正に値(あ)う 残英の月と和(とも)に落ちるに、
 寄す 此の情(こころ)を千里に。
(都の庭園に桃李の花は誇り春風は快く吹く。清歌の妨げになるのを避け扇も使わない中で、歌う唇の紅は赤い花より小さい。いま正に残り花が月と共に落ちるのに遇う、この心を千里の彼方に寄せる。)

 張子野の才能の美がそうしたのか、師師の容貌の艶(えん)がそうさせたのか、この詞が世に出てから世は遂に師師令の一詞体を得る。張子野と師師、共に素敵である。
 秦少游、名は観、同時代の人で、勿論宋朝の一大詩星である。その楽譜は言葉巧みで調子よく、晁無咎に近来の作者は皆秦少遊に及ばないと云わせる。その「満庭芳の詞」の、「斜陽の外、寒鴉数点、流水孤村を遶(めぐ)る」の句は人口に膾炙している。それなので優雅な言葉、温雅の情は、当時の長沙の一美人に見ぬ恋に憧れさせて、その詞一篇を得る毎に細い手で之を写し、愛らしいその喉で唱って已まなかった。美人は後に秦少游が罪をきせられて南遷する道で逢って、一別した後数年、門を閉じて人を避けただ少遊のことだけを思っていたが、少游がついに藤州に死ぬと夢でこれを知り、数百里の道を行ってその喪に臨み、棺を撫でて巡ること三度、声を挙げて慟哭して命を絶ち、永く哀れな物語を残す。このように秦少游の詞の才能は世に愛重された。秦少游の詞三巻を「淮海詞」と云う。中に李師師に贈った詞牌がある。云う、

  遠山(とおきやま)と 眉黛(まゆずみ)は長く、
  細柳(ほそいやなぎ)と 腰肢(こしばせ)は裊(たおやか)なり。
  粧(よそおい)罷(や)んで 春風(はるかぜ)に立ち、
  一(ひとたび)笑めば 千金も少し。
 (遠い山並みのように眉黛は長く、細い柳のように腰つきは嫋(たお)やかである。化粧を終え春風に立って一たび笑(え)めば、千金も敵わない。)


  帰り去る 鳳城の時、
  説き與(しめ)す 青樓の道。
  看遍(みてあまね)し 穎川(えいせん)の花、
  似(し)かず 師師の好(よ)きに。
 (あの時の東京遊郭での花魁姿は教え示す。見渡す限りの穎川の花も師師の好さには及ばないと。)

 一代の詩人に、穎川の花も師師の好さには及ばないと吟じさせる。四百余州を統治する宋の徽宗を嫉妬悶乱させ、百八人の豪傑の決起と結末に係わる、師師の美の力もまた大ではないか。アア、しかしながらその人も今や黄土の白骨、誰かその墓の在る処を知ろう、「水滸伝」中に輝く大きな宝のようなその名も、知らない者は作者の描き出した幻影にすぎないと云う。アア。
(大正六年五月)

注解
・水滸伝:中国の明の時代に書かれた長編小説。北宋の末期に百八人の豪傑が梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集まり活躍する話。
・三姑六婆:正業以外の職についている女性。これらの女性が出入りすればその家にろくなことがないと言われた。三姑とは尼姑(尼)・道姑(道教の尼)・卦姑 (八卦見)、六婆とは牙婆(周旋屋)・媒婆(仲人)・师婆(巫女)・虔婆(やりてばば)・药婆(薬売り)・稳婆(産婆)を云う。
・東京遊郭:北宋の首都東京(とんきん)(開封府)の花街。
・花魁:遊郭の遊女。
・方臘の乱:中国の北宋末期に浙江地方に起こった民衆による反乱。
・演義三国志:中国の明の時代に書かれた、後漢末に於ける蜀魏呉三国の歴史小説。
・女仙外史:中国の清の時代に書かれた長編小説。
・宣和遺事:中国北宋王朝末期の皇帝徽宗の一代記の形式をとった説話集。
・蔡京・楊戩・童貫・高俅:朝廷の佞臣。
・張叔夜・侯蒙:宋江の投降に貢献。
・金聖歎:中国・明末清初の文芸評論家。
・胡応麟:中国・明の学者、詩人。
・学山海居主人:『宣和遺事』の版本(跋)を発行。
・鮫綃:鮫人が織ったとされる上質の絹織物、鮫人は水中に住むと云う伝説上の人魚、水中で機を織り、泣く時は真珠の涙を落とすと云う。
・南郷子の詞:詞の一形態。
・重九の節句:九月九日の重陽の節句。
・三族:本人に身近な三つの親族(父方の一族、母方の一族、妻の一族など。)。
・茶提挙:中国・宋代の官名。茶塩の専売事務を司った。
・彭越と韓侯と:共に漢の功臣だが高祖に殺される。
・張子野:張先、字は子野、中国・北宋の詞人。
・耆卿:柳永、字は耆卿。中国・北宋の詞人。

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