你好,再見
投稿の止まったSNSアカウントを交換するのは、私とその人の間に関係の記憶という細い糸を伸ばすかのようだ。
外を歩くだけでもクラクラするくらい暑かった台北の夏は、中秋節を過ぎたあたりからはいつの間にか涼しくなっていた。
日本に住んでいるみんながあのぎゅっと冷たくてあたたかい風吹く秋の始まりをSNSで知らせる中、こちらは日々梅雨のように雨が降っていた。
9月17日(四)は中秋節だった。
新月を1日とする旧暦の8月15日、新暦(太陽暦)との齟齬がうまれ毎年中秋節の日はバラバラであること。明治政府が廃止した旧暦、日本ではもう消えてしまったこの祝祭の意味合いを台湾の地で知る。
しかし文化・風習とは変化もつきものだ。台湾の中秋節はBBQをするのが定番だという。それは醤油メーカーが打ち出した広告がきっかけで、1980年代以降定着していった文化だそうだ。
日本ではヤマザキ製パンが出しているデイリーにしかない月餅も、台湾ではパン屋でもお菓子屋でも様々な大きさ、味のものをたくさん見かけた。シェアハウスに住んでいることもあってお裾分けをいただいたりもして喜んで全部ばくばくと平らげた。中秋節には月餅を送り合う文化があるようで、台湾の人たちはもう食べたくないくらいうんざりしているのが実情だった。
すっかり仲良くなった室友とその日は公園で月を見ながら串焼きを食べた。手をベタベタにしながら笑う私たちのそばで、近所の子どもたちは花火をしていた。
心地の良い夜風に吹かれ月を見ながら丸いタイヤのブランコに乗り、日本にいる私の恋人の話や室友のつらい話を共有し合った。
公園に行く道すがら、軒先でBBQをしている人たちをたくさん見かけた。
1年という限られた時間暮らす中で全ての行事が最初で最後である。
暮らし始めて最初の行事だった。
室友と日々いろんな話をしているうちに彼女の退去日は刻々と迫る。彼女はある日ふと「さっき突然、もうこの場所とお別れなんだと思うと寂しくなってしまったよ」と言った。
私にとっても室友がいなくなった暮らしを想像すると寂しかった。
この地ではじめての「再見」になる。
そして私たちはインスタを交換した。彼女の投稿はもう一年以上止まっていた。
室友の退去日が来た。
その日は私の誕生日でもあった。語学学校から帰るとタロイモのケーキと手紙を用意してくれていて、あまりの驚きに言葉通り膝から崩れ落ちた。
目の前のケーキと手紙、1ヶ月前には未だ出会っていなかった室友に「ハッピーバースデートゥーユー」ではなく「祝你生日快樂」と歌われること。全てが夢を見ているようでどこまでも現実だった。
蝋燭の火を消す前に「お願い事を3つして、2つは声に出して最後は心の中で」と、日本には伝来しなかった風習に従って3つのことを願った。
ケーキの最初の一刀は誕生日の人が入れることも教えてもらって、パカっと真っ二つに切った。
そして夜も深くなってきた頃、今度は別部屋の数人がワインを用意してくれていて、小さな宴が出来上がった。
夜が深まるにつれ一人、また一人と自分の生活に戻っていくのはシェアハウスならではの宴だ。気づけば日付も変わり2:00になっていた。
大人になると年々誕生日の特別さは薄れていくのに今年はなんとも特別な日になった。とても幸せな時間だった。
そこにいる人たち全員一ヶ月前には誰も知らなかったのに気づけば台湾での「関係」があった。
もう、この地で私のことを覚えている人が私以外にもいた。
そして出会う人出会う人とインスタを交換し、気づけば20人以上の「新しい友達」ができていた。
室友とバイバイ、けど明日も〇〇で会うからね!来月もここにも行くしあそこにも行くからね!と言い合って、ついに部屋はがらんとなった。
一人になった部屋の中手紙を読むと室友と過ごした一ヶ月の思い出が時系列順に綴られていた。右下には日付と室友の名前。
初めて中国語でもらう手紙が私の誕生日で彼女からだったこと、この日々が絶対に忘れることができない大切な一ヶ月となって形にあらわれてしまってボロボロと泣いた。
室友がいなくなった部屋、新しい室友も来ないまま一人部屋の生活にも慣れた。
そうこうしているうちに仲良くなった別部屋の室友数人も、近々家を出るという。
ここでは誰もが旅人のように、季節とともに人も移ろう。
私も同じく旅人だ。
寂しさを抱えながらこの"わかれ"を繰り返していくのだろう。
けれども「さようなら」ではなく、「再見」はまた会える約束のような言葉だと思う。
昨日家の近くで金木犀を見つけた。
ああ、台北もやっぱり秋だった。