キャンセルカルチャーに思うこと―Lizzoの件に寄せて

フジロックに行った。
3日間のどれがベストアクトか選べないくらい多幸感あふれる豊かなライブの最後に、全ての記憶を塗り替えるくらいLizzoのステージに感動し号泣した。
生きる希望と勇気を、心のハグを、大きな愛をもらった時間だった。
配信がなくてよかったと思った。現地の、あの空気感のライブならではの感動がたくさんあった。
ライブ中、モーメントとなるようなこともたくさんあった。
それを見ながら、きっと後でTwitterで拡散されるだろうなと思ったと同時に、情報となって広まることで、個人個人の感動が覆い隠されてしまうであろう惜しさを感じた。

フジロックが終わって2日後、もう記憶が薄れていたけど3日間の思い出を忘れないうちにインスタライブで振り返った。(Lizzoは36:00頃〜)

インスタライブを行った後に件を知ってよかったと思う。

それはショックだった。目を疑った。嘘であればいいと願っている。
けれどもフジロックという場所での、Lizzoのステージでの感動はたしかにその場所に事実としてあったのだ。
私がインスタライブで話した内容は、見たものは、本物なのだ。
「こんなことやってた奴なんだぞ?」と断言され笑われたとしてもあのステージでの感動はなかったことにはできない。
もし件が本当だとしても、Lizzoの曲に込めた思いが、ファンに伝えるメッセージが嘘になる訳ではない。
もし、たとえその裏で多大なる犠牲があったとしても……

ネットで拡散されると善いも悪いもその情報が前景化してしまう。
Lizzoが曲中にレインボーフラッグをまとったことも、Everybody's Gayを歌ったことも、ファンに向け自らサインを書いていたことも。
音楽があり、ステージがあり、目の前にたくさんの観客がいる場での情景としてではなく、「Lizzoはこういうことをする人」と断片的に受け取られてしまう。

件に関して、もし本当だとしたら決して許してはならないことだと思う。
訴えによって何かが無下になってしまわないよう、事が善き方向に向かうことを心から願っている。
ただ、私たち第三者ができることはそれだけだ。
過度なキャンセルこそ私たちの手によって簡単に成し得てしまう暴力の行使だと思っている。

この件に限った話ではなく、1人のアーティストによって犠牲者が多数存在してしまうことは何より遺憾であり、そういう状況はすべてなくなればいいと思う。すべてがクリーンになる世界はなにより理想だ。

しかし1人のアーティストの“疑惑”を、情報が出た時点から瞬時に断定し糾弾し抹消するような行いに私は加担したくはない。
それは弱者の味方をするようでありながら、事実を捻じ曲げ結果的に弱者をより苦しめてしまう可能性をも孕んでいると思うからだ。
そして何より、無数の匿名による力はやがて人を殺すのだ。

情報化した人物をネット上で手軽に受け取って手軽に信じ込み、期待し感動し、手軽に失望する。
すべてが情報となり消費されていく。
あなたが失望したのはきっとその人物に対してではない。おそらく情報に対してだ。
きっと人物自体に失望するほどその人物を知らない。
ネットで拾って、ネットで吐き捨てるだけの消費的な享受に自覚的でなければならないと思う。

このような時代にTHE 1975のMattyのようなある種自暴自棄とも取れるような人物が出てくることも理解できてしまう。だからこそMattyのPodcastでの件は、その前後の発言まで含めて静観する他なかった。
ちなみにPodcastの件に関して私は、例えば原爆の認識が国によって違うように、本当に“そういう環境”で生きてきた白人男性による正直な話だったのだろうと思う。それはただ、アジア人の一人である私とは到底分かり合えない感覚で、だからといってGuysの”Oh, the first time we went to Japan Was the best thing that ever happened”が嘘であるとは思えない。
(しかし、マレーシアでのフェスでの件はライブという場で観衆やイベントを巻き込み、”マイノリティ”に寄り添うような正義を一時的な行いとしてみせることで、結果的に政府による弾圧が行われてしまったことはあまりにも無責任な行為だと思っている。)

人はあらゆる面をもっている。大衆に見せる面が善くあることと、身近な人たちを傷つけてしまうことは両立してしまう。しかしそれが人である。
大なり小なり私も同じように誰かにとっては善く見え、誰かにとっては嫌な存在だろうと思う。自分が良いと思っていることでも誰かを傷つけてしまっている可能性も大いにある。

このような時代に、スターたちは多面性を否定され、あらゆる善を、すべての正義を背負わされる。
距離は遠いはずなのに、情報があまりにも近くてなにもかもが見えすぎてしまう。
遠い他者にすがるしか希望が持てないようなこの時代に、けれども私たちは他者に過度に期待することをやめ、加害性を含む自分にこそ目を向けるべきではないかと思う。
自分の希望も絶望も、他者化することから脱するべきではないだろうか。
正義に寄り添っている思い込みをやめ、自分が生きやすく在るために他者を攻撃する可能性に自覚を持つべきではないだろうか。

だから私はすべての差別に反対することはできない。
もっと情報ではなく人に目を向けたい、目を向ける時間を費やしたい。

小さき声に耳を傾けやすい時代になった。問題が前景化しやすくなった。
でもSNS特にTwitter(X)では誰もが簡単に被害者になれる。被害者とうたったまま暴力を振るうことも可能である。
そして加害性は他者化され、己の加害性に気づかぬまま被害者であることに安住してしまうのだ。

私たちに必要なのは、弱者側に寄り添い”悪”を糾弾する正義ではなく、単に擁護することでもなく、事を受け止め見守る「時間」なのではないか。
それがファンではないかと思う。
瞬時に何もかもが許されないことこそ暴力だ。

あふれる同意見ではなく、誰かの代弁ではなく、強い反対意見ではなく、己の目で、心で見よ。

文字の情報ではなく心で、他者と、そして自分と向き合う愛が必要だ。

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