ユニバーサルデザインっていう考え方
ぼんやりと、たまに心がささくれる。
ユニバーサルデザイン。
あれは、障害者への配慮と言う意味じゃないと思うの。
本当に使い易ければ、障害があっても使いやすい、的な考え方。
それと「トレランス」許容とか、受容とか。
アメリカと日本の「平等」に対する考え方の差。
日本は結果に対する、平等。
アメリカはスタートに対する平等、だと思ってる。
日本は、支援の結果が平等でないといけない。
なので、みんな箱を一つづつ。
アメリカは、そもそも見えない事がアンフェアと考える。
だから、見えるようにする。
例えば「野球を見て、レポートを書く」という課題が出たことにする。
日本は「平等に」箱を一つづつ「支援」する。
こうすれば文句が出ないから。
一番小さい子は野球をしている所が見えない。
なので「君は課題を出さなくてもいい/違うことを書いてもいい」
これが配慮、とされる。
アメリカなら、箱を必要な数だけあたえて、全員が見えるようにする。
そして、全員に同じようにレポートを書かせて、同じように採点する。
野球を見る時の配慮はあっても、書いたレポートを採点するときの配慮はない。
もちろんこれは極端な例だけど。
イメージ、ね。
そして「許容」
日本だとすぐに「ずるい」「不平等」「迷惑」の声が出る。
どうでもいいことに対してまで。
「異なる」モノに対する「憎悪」がある、と感じる。
それが「人と違う」ように見える障害者に対する、一番の「居心地の悪さ」のように思う。
「健常も異常もない、みんな一つ」じゃなくて
「自分は異常者のことを(ある程度/よく)知っている健常者」ってところが、私の心のささくれの原因。うまく言えないけど。
まぁ、日本の物差しでアメリカを計らない方がいいと思う。
住んでいるだけじゃ、なかなか自分の物差しは変わらない。
もちろん、日本に居るよりは違うと思うけどね。
ただ、私はアメリカに住んだこと無いからイメージ、ね。
だいたい「健常と障害の区別なんて、つけられないよ」って話を「普通の人」にするのは、結構骨が折れる。
あと、異常と正常もね。
でも、そこをうまく書かないと「差別ガー」になるしねぇ。
うん、私はうまく書けません。
なので「ささくれ」ね。
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