【言葉のビストロ】逃避じゃない充電だ③
今日のヒトサラ:逃避じゃない充電だ③
「こういう前向きな話がしたかったんですよ。」
ひとしきりブレストゲームを楽しんだ後、満足そうに一息ついて彼が言った。久しぶりにお風呂に入った人ってこんな感じだろうかと、ふと考える。以前の彼は営業所内でもこんな様子で話していたのだが、やはり職場で閉塞感を感じているのだろう。とはいえ転職は大きな問題だ。興味はあってもすぐに決意はできないのかもしれない。軽く確認してみる。営業所内は前向きな話ができる雰囲気ではないんだね、と。気持ちがほぐれたのだろうか、彼はまた表情を曇らせながらも、ぽつりぽつりと語りだした。
会社を辞めたいと言っている同僚が何人かいること、そのうちの一人が体調不良で長期間休んでいてその仕事をカバーするよう課長に指示されたこと、無理をしてなんとかしているけれど感謝されるどころか残業をすると注意されてしまうこと、二人分のお客様を担当しているのだから残業を認めてほしいと言うと、それは能力不足だと責められてしまうこと、でも自分が辞めたら同僚や頼りにしてくれているお客様のことが心配なこと。
さらに彼は続けた。日曜日の午前中に必ず見るテレビ番組があるが、それを見ると月曜日の出社が憂鬱でたまらなくなる、サザエさん症候群どころの話じゃないですよね、と。話しているうちに、彼が取り戻しつつあったエネルギーが、あの表情が、風船がしぼむように消えていった。それから彼は力なく笑った。
念のために聞いてみた。何の制約もなければどうしたいか、と。すると、彼は「起業したいですね。」と静かに言った。コンビニエンスストアを経営したことがあり、その時のアルバイトの高校生たちとのやりとりや成長が楽しかったそうだ。「事業計画も資金も何にもないですけどね。」と苦笑した彼の表情にまた例の茶目っ気が見え隠れした。
そろそろ彼が帰る時間だった。前向きな話ができたこと、社外の人の意見を聞けたことを、彼はとても丁寧に感謝してくれた。彼の望むようにブレストゲームをして、少し元気になれたようではあるけれど、他にできることはないのだろうか。しかしすぐには思い浮かばないまま、また気軽に連絡を、と伝えて一緒に席を立った。
彼に必要な物はなんだろう。会社に残るにしても、転職や起業をするにしても、今はどの選択も苦しそうだった。そして、どんな選択をしたとしても、彼が彼らしく自信を持って人生を楽しんでいれば、彼の家族も友人も幸せなはずだ。どうしたら彼が彼らしさを取り戻せるのだろうか。
カフェのドアを開ける。駐車場にはお昼近くののどかな陽射しが満ちている。お互いに車の位置を指し示しながら別れの挨拶をするタイミングを掴めずにいると、彼は陽射しに目を細め、冗談とも本気ともつかない様子で肩を落とし深くため息をつきながら言った。そろそろ例の番組の放送時間だ、月曜日が憂鬱だ、と。私は返す言葉が思いつかず中途半端なゆがんだ笑顔で応える。
とりあえず彼は現状維持を選ぶようだ。それならまた課長の理不尽な叱責を聞くことになる。せめてその理不尽に心身を蝕まれないよう、精神の健康を保つために自分を守ることが大事だろう。応急処置でしかないけれど。とにかく、どんな選択をするにせよ、彼らしく彼が納得する選択をしてほしい。
私も目を細めながら空を見上げる。冬の澄んだ青い空が眩しい。空気を入れ替えるように深く息を吸って一気に吐き出す。
「あれはねぇ、もう伝統芸だからねぇ。始まったらしばらく聞くしかないよね。嵐だと思って通り過ぎるのを待つんだね。」
と、少しお道化て言う。彼が力なく笑いながら同意する。
「そうですよね、ウツウツと。」
その時、私の中で何かが弾けた気がした。私は小さく叫んでいた。
「いやいや、そこまでサービスしてあげなくてもいいんじゃない?耳だけ聞いてあげれば十分だよ。心は自由なんだから。こう、神妙な顔しながら頭の中ではダムカレーのこと考えてれば。」
彼としては明るく冗談を言ったつもりだったのに、予想外に私の声が強くて少し驚いた様子だった。そして少し笑った。
「そうだね。逃避してね。」
「逃避じゃないよ、充電だよ。」
私と彼の目が合った。彼は少し面食らったように小さく息を吸った。そして次の瞬間、あの茶目っ気を含んだ表情が輝いた。そうだ。この表情だ。ちょっと人を食ったような神妙なのか冗談なのかわからない表情。何か面白いことを企んでいる表情だ。本来の彼は気持ちを食われる人ではない。面白い話題を提供して同僚を笑顔にし、ちょっと暑苦しいくらいに語って周りを巻き込む人ではないか。
「はい、はい、って真面目な顔でさ、お説教は聞き流してね、頭の中ではダムカレーの想像してさ。」
と私が言うと、
「ウインナー抜いて放水ってね、ダーッと。」
と彼が続けた。私が一人で残業をしていた時、声をかけてきたあの表情だった。いつの間にか私は笑っていた。体が軽くなった気がした。
私たちは帰路についた。
安らかな気持ちになっていた。
ブレストゲーム以外でも、彼が彼らしさを、彼の魔法を思い出す様子が見られて安心した。
もしかして気休めかもしれない。
出社すればまた、彼は彼の魔法を忘れてしまうかもしれない。けれど、この言葉で、彼が望めばそれを思い出すことができると、使うことができると、彼の体が覚えたのではないだろうか。閉塞感にひびが入ったのではないだろうか。それは小さな微かなヒビかもしれないが、彼は、そこに光を見出したのではないだろうか。
どんな状況でも、彼が望めば、彼は彼らしくあることができる。彼は彼を笑顔にすることができる。私を笑顔にしたように。
(おわり)
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