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【言葉のビストロ】彼女の「成長」
ひとりごと:メニューの妄想
開店前のがらんとした店内には、期待と不安がないまぜになったような独特の空気が満ちている。まるで、アフォガードのようだと思う。冷たさと熱さ、甘さと苦さ、その相反する性質がマーブル状に混在していたかと思うと、接した個所から徐々に溶け合って新たな魅力が生まれる。そんなことをぼんやり考えながら、カウンターに腰かけてメニューを手に取る。そろそろ新しくしようかと何気なく眺めていて「カレー」の文字に目が留まる。
言葉というのは不思議な器だ。文字という形を持ち、目で見ることができるので、わかったような気になってしまう。しかし、カレー皿の中身が必ず「カレー」とは限らない。いやまぁ、たいていは「カレー」と呼んでいいものだろうけれど。
例えばこういったら伝わるだろうか。
メニューに「カレー」と書かれていたら、それは、その店が提供できる「カレー」であって、あなたの想像する「カレー」とは違うのではないだろうか。私たちは暗黙の裡にそれを許容し合意している。
「カレー」という言葉であなたが想像するのは、母親の作ってくれた家庭の味かもしれないし、学生時代にお世話になったレトルト食品の味かもしれない。
あるいは、この店でどんな「カレー」が提供されるのか知らないのだとしたら、具体的な「カレー」は敢えて想像しないかもしれない。それはまるで「カレー」だったらなんでもいい、とでも言うような、実際にはもっと抽象的な、そのエッセンスのような定義のようなものかもしれない。そして提供されたカレー皿に盛られた料理が許容範囲内だったならば取引が成立する。
カレー皿であれば中身が見えるので、万が一中身が許容範囲を超えていたら指摘がしやすい。しかし、言葉は文字にすれば見えるようだが、実際には中身は見えない。だからこそ、分かったような気になり誤解が生じたりもする。そして、その抽象性のために、そのあいまいさや許容範囲を超えて、時代や国の違いを超えて、本質的な部分で理解しあえたりもする。そのおかげで、古代ギリシャの哲学や古代中国の思想を、スマートフォンを片手に生活する現代の私たちが学んだり共感したりできるわけだ。
持っていたメニューが手から落ちそうになって我に返る。少々ぼんやりしてしまったようだ。
ごちゃごちゃ言ってないでさっさと「カレー」と言ったら「カレー」を出せばいいじゃぁないかと、あなたは少し苛立つかもしれない。その通りである。そんなことを考えていても「カレー」は出てこない。とりあえず「カレー」を出すことで社会は回っている。
それでも私は問うてしまう時がある。
私は、その器の中身に心惹かれてしまう。そこに、その人の本質が見える気がするからだ。私にとっては、それは大きな問題で興味の対象なのだ。
そんなこと気にする人はどうやら少ないらしい、と気付いたのは大人になってからだった。その気にしないことを聞かれることが、ある種の人々にとって大変なストレスなのだとわかるまでに、そして、それらと自分の興味との折り合いの付け方に気が付くまでには、また年月を必要とするのだが、それはまた別のお話だ。
社会の一員として生活するために折り合いをつけ、そんな余計な興味にはフタをして生活しているが、それでもそれがひょっこり顔を出すことがある。それがあなた自身の存在や、あなたの生き方の本質に迫るような内容の場合は特に。
確か彼女の好物は「カレー」だったはずだ。彼女が求める「カレー」はどんな「カレー」なのだろうか。それを知ることで、私も彼女も、もっと自身を知り味わうことが出来る気がするのだ。
これはそんなヒトサラのお話。
今日のヒトサラ:彼女の「成長」
教育というのは、手間暇かけようと思えば際限がない。学生想いの熱心な先生ならなおさらだ。学生というものは大抵なにがしかの悩みや人間的な未熟さを抱えている。学生の質問を受け相談にのり、講義をし、研究もせねばならない。毎日忙しいはずなのに、彼女は更に個人的な学びも欠かさない。それでも彼女はとても穏やかで柔和だ。半年ほど前はもう少し凛々しい印象だったと記憶している。もしかして頑張りすぎていないだろうかと、少し気になっていた。しかし、忙しさは相変わらずのはずなのに、彼女からは柔らかいリラックスした雰囲気を感じるのだ。その淡い光をまとったような様子に心惹かれた。そこに何か宝物が隠れているような気がする。
彼女と話すのは数か月ぶりだ。濃いまつげに縁取られた印象的な瞳、知性を感じる真っ直ぐな眉。アナウンサーのように端正な顔立ちにボーイッシュなショートカットのコントラストが相変わらず魅力的だ。近況を聞くと、やはり引き続き忙しいようだ。最近集中して取り組んでいることや時間をつぎ込んでいることを質問すると、学生さんとの会話を大切にしているとのことだった。忙しいのにその時間を作るのは大変ではないかと聞くと、楽しい時間だから疲れないのだと、目の前に学生さんを見ているような優し気な表情で語る。本当に心から楽しんでいる様子が伝わってくる。彼、彼女らの成長が喜びなのだそうだ。それから、自分の成長のために学びの時間も大切にしていると。セミナーに参加し、読書などで感銘を受けた言葉を書き留め、人間的な成長を目指しているのだと言う。とても向上心があるのだ。
以前、彼女が作った短歌を見せてもらったことがある。天に向かって真っ直ぐに立つイチョウの木に向上心を感じ見習いたいという作品だった。その作品の主題も、趣味で自己流で短歌を作っている私のような素人にも素直に教えを乞う謙虚な姿勢も、とても彼女らしく好ましく感じたものだった。
ところで、自分の世界に没入するような孤高の求道心のようなものも向上心と言っていいのではないかと思うのだが、彼女の向上心には、自分ための満足や孤独を感じなかった。私にはそれが気になった。彼女の「成長」とはどんなものなのだろうか。どうして「成長」したいのだろうか。私の好奇心が顔をのぞかせた。彼女になら、聞いても大丈夫なのではないだろうか。私の興味の在処を理解し、そして、受け入れて答えようとしてくれるのではないだろうか。
私は彼女に問うてみた。あなたにとって「成長」とは何なのかと。
一瞬とまどったようだったが、彼女は一つ一つ確認するように話し始めてくれた。そして彼女の口調も表情も言葉を重ねるごとに確信に満ちていった。
自分のために成長したいのではないと思う、自分が成長する姿を学生に見せたいのだと、彼女は言った。叱咤し、教え導くのではなく、彼女が成長する姿を見せることで、また、太陽のようにあたたかく見守ることで、間接的に学生の成長を促したいのだと。そして、学生が自ら成長する姿が彼女の本当に求める「成長」なのだと。彼女は学生の成長のために成長し続けるのだと。
彼女の表情は更に淡い光を帯びて輝きを増していた。私は深く納得していた。何もかもが腑に落ちたと感じていた。
彼女にとって成長につながる研究や勉強は、しなければならない義務的な事柄でも苦行でもなく、最終的に学生の成長という大きな喜びにつながるものなのだ。だからこそ、忙しくても消耗することなく、充実し喜びと穏やかさが溢れているのだ。そして、彼女が目指すような太陽のようにあたたかく見守る存在に、彼女は確実になりつつある。
私はとても清々しい気持ちになっていた。そして、とてもあたたかい気持ちになった。
これまでのように、彼女は成長し続けるだろう。それは、決して苦しいことではなく、植物が太陽に向かって枝葉を伸ばすように自然なことなのだ。そして、彼女自身が太陽のような存在になり周囲を明るく照らし、自然に成長を促すのだ。彼女はますます成長し魅力的になっていくことだろう。そして、これまで以上に、喜びにあふれていくのだろう。そして、私は予想通り宝物を見つけたのだった。
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