【言葉のビストロ】逃避じゃない充電だ②
今日のヒトサラ:逃避じゃない充電だ②
待ち合わせのカフェに約束の時間より早めに到着していた彼は、先に席に座って待っていた。私が近づくと機敏に立ち上がり営業担当らしく丁寧に挨拶をしてくれる。相変わらず忙しくお客様先を走り回っているのだろう。紺色のニットにカーキ色のチノパン。脱いだダウンコートをまとめて隣の席に置いている。彼がスーツ以外の服を着ているのを見るのは初めてだが、以前と変わらない雰囲気だ。しかし、何かが足りない気がした。彼独特のあの、真面目な中に茶目っ気を秘めた表情が見られない。彼の魔法が感じられないのだ。その表情で声をかけられると話が始まる前から笑ってしまっていた私が、今は再会を喜ぶためだけでなく、場を和ませようと少々多めに笑顔を作っていることに気付く。久しぶりに会うのでお互い緊張しているだけかもしれない。コーヒーを一杯飲むくらいの時間はあるだろう。とりあえず、私の推測は一旦脇に置いておこう。そして、彼の話に耳を傾けよう。その上でもし私の推測通りだったならば、その時は、彼が彼の魔法を取り戻すような、せめてそのヒントになるような何かを、提供するために最善を尽くそう。以前彼が私にそうしてくれたように。
私は椅子に深く座り直した。
日曜日の午前中、店内はほぼ満席で活気のあるざわめきと淹れたてのコーヒーの香りで溢れている。内装は黒と木目を基本に落ち着いた色調でまとめられており、高い天井とそれを活かした大きな窓が解放感を与えてくれる。窓の向こうに広がる澄んだ冬青空が眩しい。ため息が出るような幸福な光景だ。それらを背景に、彼は椅子に浅く座り背を丸めてテーブルの上で手を組み手のあたりを眺めている。左手の窓から冬の午前中の透明な陽射しが射しこむ。彼の左肩から腕は白く輝き、顔と体の右側半分以上は陰に沈んでいる。
店員さんが二人分のコーヒーを運んできてテーブルに並べてくれる。彼は丁寧に愛想よくお礼を伝える。繊細な心配りは相変わらずだ。以前の彼を知らなければ違和感は感じなかっただろう。
お互い簡単に近況報告を終えると、「あのねぇ、実はね。」と軽く座り直しながら神妙な調子で彼が話し始める。転職してこないかと、ある会社の方から誘われたのだそうだ。その会社に限らず、転職すると決めたわけではないが、もしそこに入社したら、私と一緒に何か新しい企画が提案できるのではないかと思ったというのだ。その会社は複数の宿泊施設などを運営しており、システム管理者を求めているのだが、システム管理だけでなく、さらにそのシステムを活用しておもしろいことができそうだ、と。まだ転職すると決めたわけでもないのに、新規事業の提案を考えるなんて彼らしい。そういう彼の姿勢が評価されたのだろうし、彼だって嬉しいから提案を考えたいのではないだろうか。その割に表情は曇っている。なんだか微かに違和感がある。
とはいえ、とりあえず彼の希望通りにブレストゲームを始めることにする。単純に面白そうなテーマだ。とにかく、実現可能性にこだわらず自由にアイディアを出してほしいということだったので、まず、私が提供できるスキルと絡めて少し発展させたアイディアを出してみる。
例えば、私は前職でIT系のインストラクターをしていたので、宿泊施設を活用してパソコンやタブレットを使った講座が出来そうだ。彼はより専門的なIT系の知識を提供できるし、技術サポートもできるだろう。それを活かして宿泊施設自体をビジネスパーソン向けのコワーキングスペースとしてもいい。
「温泉がある施設もあるから、街中の施設と差別化できますよ。」
と彼が言う。
「それいいね。温泉付きのオフィスなんて最高だね。」
と私が応える。
「スタートアップ向けのレンタルオフィスもいいかもしれないですね。個人事業主の方、増えてますしね。」
彼はイメージに集中するように、上体を起こし腕組みしながら天井を仰ぐ。
「そうだね。だったら運営側じゃなくて契約者がセミナーをしてもいいかもね。」
お客様を招けば宿泊施設も楽しんでもらえるし、契約者の支援にもなる。契約者同士でお互いに得意なことを教え合ってもいい。そこをスタートアップのためのコミュニティにするのはどうだろう。お互いの得意を活かして、勉強しあい協力し合って新しいビジネスが生まれるかもしれない。内容はビジネス関連の勉強会でことでもいいし、カルチャースクールのように趣味の講座を設けるのもいいかもしれない。
イメージが膨らむにつれて、彼の口調は徐々に熱を帯び、身振り手振りも大きくなっていく。イメージに集中するほどエネルギーを取り戻していくようだ。
「それなら、私は絵手紙講座とかかな。」
「僕、地質の話なら何時間でもしゃべりますよ。」
「地質もいいんだけどねぇ、ダムカレー講座がいいんじゃないかな。」
彼がふと目を上げる。瞳にいたずらっぽい光が輝く。
「いいんですか?ダムカレーは奥深いですよ。ただダムの形にご飯を盛り付けるだけじゃないんですよ。ソーセージを外して放水するんですよ。」
「放水?」
「ご飯がこう盛られて壁が作られてるんですけど、その中にカレーが貯水されてるわけですよ。で、放水口にソーセージが刺さっててせき止めてるんですけどね、それをご飯から外すと中のカレーがダーッと流れ出てくるわけですよ。」
「あえてせき止めておくんだね。」
「そうです、そこが大事なんです。」
真面目な顔で滔々と語り始めた彼の表情に、あの茶目っ気が輝いていた。そして私はいつの間にか自然に笑っていた。
(つづく)
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