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【言葉のビストロ】価値ある余白

ひとりごと:ビストロの妄想

 苦手な食べ物があっても人は問題なく生きていける。しかし、それでも自らそれに向き合おうとしている姿は健気だ。応援したくなる。
 いつもの席に座った彼女とカウンター越しに世間話をしながら、そんな健気な彼女に何か協力できないかと思案を巡らせている自分に気付く。いつもの癖だ。
 調理法や味付けを工夫することで意外とサラリと食べられるようになることもある。どんな料理なら興味を持って、そして食べてもらえるのか。手元にはどんな食材があっただろうか。消化の良いものがいいかもしれない。細かく刻もうか。やさしい薄味か、それとも食欲をそそる濃い味か。そして、注文もされていないのに、名もない即興料理をそっと彼女の前に置いてみる。
 しかし、もちろん無理やり食べさせることはできない。そもそも注文さえしていないのだから、自分に差し出されたのだと気付かなくても仕方ない。気付いたとして、その見慣れぬ料理に手を伸ばし、勇気を出して口に運び咀嚼するのは、彼女にしかできないことだ。しかしもし、それを食べて、そして笑顔を見せてくれたら、再び世界を自分を味わい楽しんでくれたら、とても嬉しい。

 ところで、実はこれは例え話だ。残念ながら私は料理が得意とは言えない。それはともかく、これは、誰かと対話している時の私の頭の中で展開されているイメージだ。実際に扱うのは食材ではなく言葉。私の中の妄想のビストロで気まぐれに提供される、誰かのための名もない即興のヒトサラのお話。


今日のヒトサラ:価値ある余白

 久しぶりに画面越しに話す彼女は、はにかむような笑顔を見せてはいたが少し苦しそうな様子が気になった。
 朗らかな額、リスのようにくるりと丸い目に眼鏡が似合う。ころころと鈴が転がるような笑顔がキュートな小柄な女性だが、職場では部下を抱える管理職だ。今日も残業して、それでも、このビデオミーティングのために普段より早めに切り上げてなんとか間に合ったのだと、その様子をコミカルにテンポよく話す。そして近況報告が仕事の話題になると、柔らかかったその表情は引き締まり貫禄さえ漂う。今、彼女には職場の風景が見えているのだろう。

 オフィスの彼女の席には、部下が業務に関する相談ごとを抱えて入れ替わり立ち代わりやってくる。指示をして終わる場合もあれば、一緒に対応にあたる場合もある。それとは別に、彼女がしなければならない仕事の予定もあるのだが、スケジュール帳に記入されているそれは、なかなか消化されない。部下が帰った後、残業して予定の仕事をこなそうとするが追いつかない。疲れ切っていて帰宅後は身の回りのことをするので精いっぱいだ。それでも、几帳面な彼女は一日の終わりにスケジュール帳を開く。ほとんどの予定がそのまま翌日に繰り越される。そしてまた、ほとんど前日と同じ予定が並ぶページが空しく増える。
 そんなわけで、平日の勤務時間後に習い事などする余裕はないのだと、彼女の近況報告はため息交じりに締めくくられた。

 私には素朴な疑問が浮かんでいた。
 なんだか彼女が部下にスケジュールを合わせているように聞こえる。一般的には、部下が上司である彼女に時間を作ってもらうものではないのだろうか。聞いてみると、いつ相談にくるかわからないから、すぐに対応しなくちゃいけないから部下のために空けておかないといけない、とのことだった。   
 いかにも責任感があって誠実な彼女らしい。親切で面倒見がよく、上司にも部下にも頼られている様子が容易に想像できた。もしかしたら、甘えられてさえいるのかもしれない。
 更に聞いてみる。大人なんだしもう少し放っといてもいいんじゃないか、意外と大丈夫かもしれないよ、と。でも言ってもなかなか聞かないんですよ、急に言ってくるんですよ、と言う。
 まあ、そうだろう。こんなに親切で頼りになる人が、いつでも待っていてくれるのだから。

 彼女の話しぶりには、責任ある仕事を任されそれを全うしているという誇りが感じられる。もちろん、誇っていい。そしてそれが幸せそうだったら何も気にはならなかった。

 でも、少し苦しそうに見えたのだ。

 責任感の強い、真面目な女性にありがちなことだが、周囲に迷惑をかけてはいけないと思うあまり、また、洞察力も能力もあり周囲の期待に対応できるため、とても手厚く仕事をしてしまう。しかしそのために、自分の時間が削られてしまい、その現実を突きつけてくるスケジュール帳を見てため息が出るのだろう。
 それなのに、彼女はスケジュールの「空白」を埋めたくなってしまうのだという。彼女が言う「空白」とは、どうやら仕事や用事以外の、習い事や運動などの余暇のスケジュールのことの様だった。
 彼女が必要と感じるなら、習い事や運動なども仕事と同じように大切で、スケジュール帳に記入して調整されるべきものだろう。決して空白ではないと思うし、実際に、勤務時間後の飲み会の予定のために仕事を調整している人を何人も見てきた。しかし、彼女は彼女にそれを許すことができないというのだ。彼女のスケジュール帳に予定を書き込むことができるのは、彼女以外にいないというのに。
 彼女が望んでいるように、彼女が彼女のための予定をスケジュール帳に堂々と記入するには、どんな言葉が必要なのだろうか。彼女はどんな言葉なら受け取ってくれるのだろうか。

 彼女は工業部品の調達部門に勤務している。そこで、歯車のアソビについて知っているか聞いてみた。歯車はアソビと呼ばれる隙間がないと部品同士がきっちり嚙み合いすぎてうまく動かないのだと話してみる。
 少し首を傾げた彼女は、理解はしたけれど腑には落ちていない様子だ。少し方向を変えてみる。彼女はアートが好きだったはずだ。
 私は西洋画と日本画の違いについて問いかけてみた。彼女は少し興味を持ったようだ。

 西洋画には物が描かれていないことろはほとんどないが、日本画にはそれがある。西洋画では空白は何もなく無意味と受け止められるためだ。しかし、日本画ではそれは余白として、美、風情、余韻などの意味をもつ。何も描かれていないように見えるが、余白には大事な価値があるのだ。価値ある余白は存在する。

 その瞬間、神妙に聞き入っていた彼女の表情がパッと輝くのが見えた。
「それいい!価値ある余白!」
彼女は熱心にメモをしていた。私はその勢いに少し驚きながら、彼女の笑顔に屈託がなくなったのを感じて嬉しくなった。

 それ以来、彼女は自分のために使う習い事などの時間を、仕事や用事が優先される「空白」と認識せず、きちんと確保されるべき価値のある「余白」と認識するようになったようだ。そして会う度にあの、鈴がころころと転がるようなかわいらしい笑顔を見せてくれる。休みがちだった習い事にも、また参加するようになったそうだ。つられてこちらも笑顔になる。苦しそうな様子はもう感じられない。きっと彼女のスケジュール帳には、しっかりと習い事や運動の予定が書きこまれていることだろう。


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なごみ
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