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愛から逃げた。愛を知らなかったから。#3 かつて「愛されたかった」君へ

◎私は君を知っている

正しく愛することも難しく、正しく愛されることも難しい。
でも、愛されたくて、愛したい。

生きているとそんなことばっかりで、どうやら偉いらしい人は「日々の努力」みたいな簡単には手に入らないものとか「長期的展望」とかが大切だ、と言い、短期的でインスタントに手に入れることができてしまうものは、価値のないものだと言っている。

そんな偉いらしい人へ。
そんな強くなれねぇんすよ。
寂しかったら人肌を求めちゃうし、一夜限りのあれやこれも、その場しのぎの何が悪いんだって。
そんな見たことも感じたこともない、あるかどうかすらもわからないのに「正しい」「本物」の愛、なんて探す余裕なんてないんすよ。
使い捨てカイロで何が悪い。冷たくなったら新しいものを用意すればいいだけでしょうに。

ないよね。そんな余裕。
しかも真面目に向き合えば向き合うほど、傷つくんだよね。あるかどうかもわからないもののために。そんなバカみたいなこと、やってらんねぇって。

知らない。見えない。わからない。
安易なものに飛びつく僕はいけないですか。見えやすい愛に似た何かに騙されて、欲してしまう私はバカですか。ある程度気持ちも体も満たされて、それでとりあえず今はよくって何が悪い。ないよりある方がましじゃんか。わかんねぇよ。

愛ってそんなにいいのかよ。愛ってそんなにあったかいものなのかよ。愛ってなんだよ。愛って、なんだよ。

3つにもわたるこんなくそ長い駄文をここまで読んでくれているあなたはきっと「愛が大切なもの」って言葉ではわかっているけど、その実感を得ることができたことがなくて。手に入れたけれどこれは違うものだという感触を残しながら、でもある程度の満足はしたことがある。だけどもどこか懐疑的に考えている部分もあって。なにやら確からしい言葉を求めているんじゃないかなって。勝手に妄想してごめんね。違ったらほんとにごめん。

そういう風に生きていくうちにお手頃な愛で済ます人、似た何かで誤魔化す人。
そして寂しさを別の何かでかき消したり、自身の心を殺してしまった人。
無意識のうちに「愛されたい」心から逃げていった。寂しさを、求める心を、愛してほしい本能を。別の何かでかき消して、進んでしまった。

仕事や友達、趣味。他の何かで完全に代替なんてできないのに。
「一人で大丈夫」と。誰かを求める本能を、自身の心を守るための理性で押し込み無いものは無い、と。無いものを求めて傷つくぐらいなら、それを欲してしまう気持ちをなくせばいいんだと。
「寂しい」「愛されたい」と思う気持ちを、そもそも感じにくくしてしまった。心を、感情を、思いを、麻痺させたんだ。

そんなあなたへ。
あなたは愛を、諦めたんだね。

◎何者

 もしかしたら僕はここまでであなたを傷つけたかもしれない。思い返せば散々なことしか言ってこなかったな。お前の愛しているは愛じゃなくて自己満足だの、お前は愛されたことがないだの、極めつけには「愛されたい」って思ってるくせに逃げてんじゃねえよ、とか言われて。
何様だって思われても、じゃお前はどうなんだって思われてもしょうがない。随分と高いところから反撃される心配もない卑怯な位置でほざいてしまった。
まぁそのお詫びというか。いやただ単に聞いてほしいだけなのかもしれないけれどちょっとだけ自分の話を。

正しく愛されたことがあるか、と問われるとどうだろうなぁ、と思ってしまう。こんなことを言うのは数少ない私なんかを愛してくれた人たちに失礼なんだけれど。きっと、僕が幼稚だったり、バカだったり、そんなせいであることを含めて正しく愛を受けとることができなかったんだと思う。愛してくれた人、愛そうとしてくれた人、あなたの愛をきちんと受け取ることができない私でごめんなさい。

正しく愛したことがあるか、って質問には愛せなかったんだろうな、ってなると思う。だって正しく愛されたことがないのであれば、正しく愛することはできない。その時、その瞬間にその人のことを愛している、って感情は本物。これはほんと。でも今まで言ってきたような愛を届けることができていたのか、ってのはほんとにその人たちには心から申し訳ないけれど、できてなかった、って今は思う。

好きが大きすぎて恥ずかしさのあまり何一つしてあげれなかった愛も、初めての感情に振り回されてただただ傷つけてしまった愛も、心の繋がりを構築できなかった愛も、寂しさに勝てなかった愛も、そして、当たり前を大切にしなかったあの愛も。全部、全部、自身の落ち度で正しく愛することができなかった。と思ってる。いや、今になってやっとそう思うことができている。正しく愛するべきだった人、あなたを正しく愛することができない僕でごめんなさい。

といった風に偉そうなことをべらべらと言っていた割には私も誰かを愛し、誰かに愛されることをしっかりできてきた人生を歩めてきたわけじゃない。
でも一つだけ突き通していることがあるんだ。それは愛の痛みを正面から受け続けたこと。
私、愛されたいんです。愛されたい、と思う人から愛されたいんです。正しく人を愛せなかったくせに、正しく人から愛されることすらできなかったくせに、今もできるかわからないくせに、いるかもあるかもわからない愛されたいと思う人からの愛で、愛されたかったんです。
心が傷つくことを厭わず、愛に似た何かで満足せず、手探りで、妥協せず、自分が愛されたいと思っている、という事実から背かなかった、向き合った。

だから誰かを「愛する」ことができるのかもしれないと思うんです。“正しく”誰かを愛したいと思うことができたんだと思うんです。愛することだけじゃなくて、愛されたいと願うことも、自分が大切に愛されることも大事なことだ、と言えるんだと思うんです。

沢山の人を傷つけた。いっぱい間違えた。今もなお、正しい愛ができるようになった、なんて口が裂けても言えない。
でも、心を、感情を、幼気に泣いている自分自身を、無視して消して、殺さなかったから。
愛に近づくことを許されたのかもしれない。

◎愛を諦めた、と思いたい

僕が会ってきた人の中で体感でしかないけど一番多いなって感じる人が抱えているのが「愛を諦めきれていない人」
そういう人は誰かに愛されることや誰かを愛すことをどこかで求めつつも、諦めた方が心が楽だ、という思いからそういった状態になる。
「一人で生きていける」「私が好きだからそれでいい」「そんな深く考えたくない」
こんな感じのことを言ったり、思ってたりするんだろうな、ということが多い。

これが本音ならいい。それならただくそ迷惑な野暮なつっこみだ。人の心のうちを勝手に妄想し、勝手に同情して、勝手に語りかけている。そんな痛いことをしてごめん。ほんときしょいと思う。傲慢で的外れで、自分の世界に酔って。こいつ、痛いやつだな、って思われても仕方がない。

でも、そう言っているほとんどの人がそれも本音の一部ではあるけど、その一部を本当に心から思っていることだ、と自身に言い聞かせ、誰かに愛され、誰かを愛したい、と思っていることを無いものにしようとする。それも本音の一部であるはずなのに。
そして、それに気づいていない。愛を求める気持ちを無意識のうちに無視しようとしている。

これが悪いことだなんて言わない。
そもそもこれが起こる要因は、自身を守るために働く心の動き、回避や逃避、代替といった行為、すなわち自己防衛反応。自身の危機やストレスから守るために生き物として標準装備された心のシステム。

それに従うことが悪なはずがない。その機能が無意識に働くほどに傷つく可能性のあるものから逃げずに向き合える人の方が圧倒的に少ない。だからみんな、愛から逃げる。愛は痛みと隣合わせということを感じ取って。

でも当たり前っちゃ当たり前なんだけど、そんな簡単に愛を諦めることなんてできない。だって愛されたい、と願うのは本能だし、愛したいを思うのもそれと匹敵するぐらい大きな欲望なんだから。
だからその二つの感情の中で揺れ動くようにして葛藤する。

そうしてそういうことを繰り返しているうちに、いつかの無邪気に愛を求めていた自分を少しずつ、少しずつ殺してしまう。その方が楽だから。

悲しい。

自身の心を守るために愛を諦めたいんだ、と自分に暗示をかけて、心を麻痺させ反応させないように壊していく。でも、ほんとはどこかで諦めきれない。

だから中途半端な偽物で納得させたり、どこか虚ろな気持ちのまま生きてたり、ふとした虚無に苦しくなる。
そして、一番悲しいな、って思うのはそういう人が一番背負うリスクが「人と真正面から向き合うことができなくなること」

それはいつか現れる“正しく”愛してくれる人なのかもしれないし、本当は愛せた人なのかもしれないし、もしくは自分自身なのかもしれない。

向き合うことができないということは”正しい愛”なんていうものはもちろん、無邪気に愛を求めていた自分が欲したものの形がわからなくなり、そしてその暖かさに触れた時でさえも反応が鈍くなってしまうのだ。そのリスクを知らないままに人は心を沈めていく。

◎かつて「愛されたかった」君へ

結局ここまで書いた文章ってのは自分の考えたことや感じていること、伝えたいと思っている傲慢な思いを得意げにひけらかしているだけで、勝手に気持ちよくなっている自慰行為となんら変わりない。
だからこれを読んでくれたあなたに人を心から愛しましょう!とか、もっと人に心を開くと幸せになれるよ!とかそんな陳腐なことを感じ取って欲しいわけでもなく、もっと自分や人と向き合えよ、とか愛されたいと思ってんだろ?認めろよ?って言いたいわけでもない。

ただここまで読んでくれた人はたとえそれがほんの少しだとしても、自身の生き方と少しばかりの対話をしてくれたんじゃないかな、と思う。僕の傲りはそれです。

かつて「愛されたかった」君へ
自分は誰かに愛されたいと望んでいたのか。そんなことを思ったあなたにこの文章の何かが残れば。そんな思いで書きました。

向き合いたくないしんどい現実を突き付けてごめんね。きっと、きっと幸せになれることを祈っています。

読み苦しいものを失礼しました。最後までありがとう。



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