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「コンテンツ化された恋愛」への嫌悪感

何故愛に心が躍るのか

いつの日からか、人と人との関係性を結ぶために行われる「恋愛」をコンテンツ化しているものに対して嫌悪感を感じるようになった。それは文章や、漫画などのエンタメ類、「恋愛」を人生を彩る一つのコンテンツとして扱う「人」に対してなんだと思う。そして、それを自覚した後でもまんまとその「コンテンツ化された恋愛」を、エンタメとして楽しんでしまっている自分に対しても。

思えば私は小さいころから「コンテンツ化された恋愛」の楽しさを享受してきた方だと思う。気づけば魅力的な異性の存在を感じ、気づけば少女漫画で描かれるような夢のある恋愛に憧れていた。人生で初めてみたドラマは「プロポーズ大作戦」で恋愛を主題としたものに惹かれたし、アオハライドもorangeも、女子専用だったはずのキュンキュンを勝手に盗んで楽しんでいた。これらのように誰かによってコンテンツ化された状態で用意された「恋愛」を与えられるがままに楽しんでいたように思う。

なぜ、そんなにも人と人とが好意を寄せあう過程や状態に興味関心が沸き、トキメキを感じてしまうのか。そして、「コンテンツ化された恋愛」の違和感に気づき嫌悪感を抱いてなお、何故私はいつまでも誰かと誰かが惹かれあう過程や、人の人との暖かい関係が垣間見える光景を「いいなぁ」と思ってしまうのか。

今回はそういったことについて考えていきたいと思う。

「先天性」恋愛脳 Part.1

今でもはっきりと覚えている。小学校の入学式の後、私は親に聞かれた。

「どんな子がいたの?」

そして答えた。

「可愛い子が2人いた。一人はお人形さんみたいだった」と。

親は笑っていたと思うがどんな子がいたか?と聞いただけなのにまっさきに異性の魅力的な子がいたことを告げた私は、そうとうに幼いころから恋愛、というにはまだ様々が拙すぎるものを、生物の本能として刷り込まれていたように思う。

それまでの保育園などでバレンタインや好きな子(笑)というのもあったし、同性には抱かず、異性にのみ抱く感情があることを幼心ながらにうっすらとは感じていたのだ。

その頃の私というのは姉が持っていた「ちゃお」を読んで「コンテンツ化された恋愛」を楽しんでいた。めちゃモテ委員長を見て、女の子が感じる恋心らしきものを疑似体験し、きらりん☆レボリューションを読んで女の子が魅力的に感じる男の子のしぐさ、みたいなものを学んだ。

もちろん同時期に「コロコロコミック」「ONE PIECE」で少年心を養うことも忘れなかった。ミラクルボールを読んで不滅ボールを投げる練習もしたし、ギア2は血行を早くすることで運動能力をあげているのであれば、血の巡りを早くすれば現実世界で同じことができるはずと思って一生懸命同じ格好をして筋肉を上下に動かすことも抜かりなく行っていた。

そんな風に小学生時代を過ごし、中学生になった私は新たな「コンテンツ化された恋愛」に出会う。それが「ライトノベル」だ。

「先天性」恋愛脳 Part.2

中学生となり少女漫画はちゃおからもう少し大人なものを好むようになった。それは例えばorangeだったり、NANAといったような中高生以上が主役となるようなものだった。年齢とともに触れるコンテンツは変化していくが主題となっているものが変わらないというのは不思議なものだ。

ただ、そんな私の前に颯爽と現れたものが「ライトノベル」だった。所謂「ラノベ」と呼ばれるカテゴリーのものであるが、これは中々に衝撃的な出会いであった。

今までは本来は女子のために書かれた女子だけのものを、こそこそと拝借させていただいていた感覚にあった「コンテンツ化された恋愛」を、男が妄想する最高の恋愛シチュエーションを物語として楽しめる、という世界が目の前に広がったのだ。

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」「とらドラ!」「さくら荘のペットな彼女」「バカとテストと召喚獣」
同じ時代を生きた人がきっといるだろう。
やぁ、同士よ。実に懐かしいなぁ。

女子だけのものであった甘酸っぱさは引き続き味わいつつ、自分が居てもおかしくないと思える環境で、何の背徳感も持たずに「コンテンツ化された恋愛」をむしゃぶりつくすことができるようになったのだ。

現実世界の私といえば、それまで「コンテンツ化された恋愛」で散々に肥大させた理想を焦らしに焦らした後に、今更になって「お人形さんみたい」と言ったあの子に初めての恋を預けることになっていた。

初めての感情、初めての出来事、初めてだらけのことに心の成長が追いつかないままに終わった恋であったが、その始まりから過程、傷ついた心まで含めて自己陶酔さながらに「現実の恋愛」に自ら求めて突っ込んでいっていたように思う。

無意識のうちに自身でそれらをコンテンツ化していたのではないか、と今となっては思う、ということだ。「恋する自分の理想像」「自分なりの正しい傷つき方」みたいなものを演じるようにして、それらの正しいあり方みたいなものを手探りしながらいたのだろう。

まぁ、本能のままに恋愛をした、といった感じだった。

「先天性」恋愛脳 Part.3

時は飛んで大学生。

それまでに初恋の傷を癒し、その後に個人的大恋愛を終えボロボロになった心はそれでいてもなお「コンテンツ化された恋愛」に相も変わらず引き寄せられていった。

その頃特に夢中になったものといえば「愛がなんだ」という映画。今となってはこれを「コンテンツ化された恋愛」と呼ぶなんてことは尊敬する今泉監督に向かっての侮辱となってしまうため口が裂けても言いたくないのだが、当時の浅い脳しか持たない私はこれを「だらしない男にそれでも振り回されてしまう女の子の恋愛映画」という風に認識していた。

そこらへんから「大学生にありがちな恋愛」とか、「セフレ」「香水」とかとか、「たばこ」とかとかとか。そんな風な「コンテンツ化された恋愛」をよくしがんでいたように思う。

性欲のままに異性と恋愛の真似事をする人、傷つくことを恐れているが恋愛をやめられない人、恋愛を諦めたふりをしている人、など、それぞれがそれぞれの本意に気づこうとしないままに、「恋愛」という生物の本能に刻まれてしまっている(と勘違いしているだけなのかもしれない)ものに振り回されている様子がコンテンツ化されたもの、をよく好んでいた。

それは共感を求めたのか、疑似体験を求めたのか、まぁそんなところだったんだと思う。その大人の恋愛、なんて綺麗な風に装飾されてしまっている関係性に何か危険な魅力を感じていたんだろう。

だからと言って現実の私がそうだったかというと、それは全く別物で。手の届きそうにない大人なお姉さんに惚れかけたことはあったし、傷つけてしまいそうなこともあったが、それらに影響を受けたわけではなく、ただただ自身も自分の心にある何か、に振り回されただけのように思う。

まぁそんなこんなで世の中に用意された「コンテンツ化された恋愛」の魅力に人一倍魅了され、年齢と共に姿形を変えながらもほぼ常に隣にい続けたものを、今になってそれらに対して少しの拒否反応を示しているのが昨今だというわけだ。

ステレオタイプ化された「幸せ」

いつの頃からか思っていた。
好きな人と結婚し子供がいて、暖かい家庭を持つことが幸せの形なのだ、と。
いつの頃から思っていた。
それ「だけ」が幸せの形ではないのだ、と。

誰かの人生と歩調を合わせながら歩むことも、一人で好きに人生を闊歩することも、どちらも違った幸せの形で。

誰かと手を繋いで生きていくこともしてみたいし、自分の好きなことを好きなようにする人生というのも悪くない。

出会って仲良くなって付き合って1~2年たったら同棲して。
もう数年たったら結婚して子どもは2人。忙しい中に愛する人と子どもの笑顔がそこにはあって。
いつかは子どもが巣立っていってゆったりとした老後を過ごしながらまれに来る孫に癒されて。
たまには旅行の一つでもしながら余生をゆっくりすごして、最後はみなに看取られながら天国へ。
なんてすばらしい人生なんだろう。なんてすばらしい理想ルートなんだろう。なんてすばらしい人生のコンテンツなんだろう。

本当にそうか?

そう思うのはステレオタイプ化されてしまった幸せに反抗したい気持ちもある。誰かの通った一つの正解らしきルートを歩むだけの人生が嫌というのもある。誰の人生も背負わずに生きていきたいというのもある。

多様化する社会の中では幸せの形も人と同じようにそれぞれの形がある、という価値観が浸透しつつあって。
独身の人が増加し続け、恋人がいたことがない、なんて友人はざらにいて。

「誰かと共に生きることだけ」が正解じゃない、という社会になりつつある中で、私は心の奥からそれを理解しつつ、違う幸せの形を描きつつ、一人で生きることで得られる幸せを確認しつつ、それらの全ても幸せに続く一つの道であることを重々感じたからこそそれだけが幸せの形だ、とでも言いたげな「コンテンツ化された恋愛」に対して拒否感を覚えていて。

それでいてもなお、私は「ステレオタイプ化された幸せ」=「コンテンツ化された恋愛」を諦めることができないのだ。

「コンテンツ化された恋愛」なんてばかばかしい。とか言いつつも、それに憧れずにいることが難しいのだ。

何故、自分はそこまで理解しつつ、昔描いた理想像に未だに囚われ続けるのか。
何故、家族も友人もいて、独りじゃないはずなのに、パートナーがいないと独りだと感じてしまう感情が残っているのか。

それは「先天性」恋愛脳であるために本能として誰かを求めているからこそ、自分の中での幸せの形が絶対的な位置に鎮座しているからなのだろうか。

それともあまりにも世の中にはびこる「コンテンツ化された恋愛」に触れすぎたせいで「後天的」にそういうことが幸せだと刷り込まれてしまったのだろうか。

兎にも角にも恐らく私は自身の心に巣食う「寂しさの悪魔」に振り回されながら生きるしかない生物なのだと思う。

しかし、そんな自分を情けないと思うし、大変恥ずかしいと思う。

だからこそ、それらを良い物、魅力あるものとして世の中に発信されている「コンテンツ化された恋愛」(=自分)に対しての嫌悪感を抱き、どこかでそれを見下したような素振りをしながらも、一番求めているのは自分だ、みたいな状況になってしまっているのである。

例えるならばまだウルトラマンが好きなのに、もう大人でしょ、といって大人に無理やりウルトラマンを取り上げられたために、同い年や年下でウルトラマンが好きな子を攻撃してしまう子ども、みたいな感じだ。

それじゃ恋愛を素直に受け入れればいいじゃん、という話になるとは思うがこれまたもうここまで来てしまうと難しいものだ。
気を抜いたらすぐさまにでも受け入れてしまうからこそ、それを認める自分に耐えられない。こんなに経験を重ねているのにも関わらず今更に恋愛に陶酔してしまう自分も恥ずかしい。

まぁこういったこんなで一人で生きれるようになりたいけれど、結局は一人では生きられないのか…?恋愛というものに縛られながら生きるしかないのか…?いいや、そんなことはない(そんなことはある)みたいなしょうもない生き物がここに一匹転がっている、というだけの話でした。

ただやっぱり今の理想としては一人でも生きられるけど、あなたと生きたい、という状況だと思っているし、そうなれるように自分と対話してそうなっていこうとしている状態だと思います。

今回も駄文にお付き合いいただきましてありがとうございました。
あなたにとって恋愛とは人生においてどんな立ち位置でしょうか。一緒に生きていく人、なんてステレオタイプはあなたにどのような影響を及ぼしているでしょうか。
こんなことを言いつつ、この文字の塊は誰かの考えるきっかけになれば、とかそんな高尚な思いを持って作成されたものではありません。
ただただ恥ずかしい人間の、恥ずかしい部分を誰かに聞いて欲しかっただけです。相も変わらず話を聞いて、なんて言えない人間なので。

話を聞いてくれてありがとう。
それではまた。






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