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愛から逃げた。愛を知らなかったから。#2 愛されたい。誰かに、愛されたい。

◎愛されたことはあるか

「誰かからの愛を一身に受けたことがある」
そう言い切ることができる人がはたしてどれくらいいるのだろうか。
無条件で無尽蔵。その愛に疑念を持つ瞬間すら訪れず、安定や安心、みたいな不安という概念無しには成り立たない言葉では陳腐に感じてしまうほどに、存在を疑うことがない。そしてそんなことが脳裏によぎることすらもない。

そんな愛を受けたことがある、そしてそれを自覚している人。
そんな人がいったいどれほどにこの世にいるのというのだろうか。

全員が全員とは言わない。でもこれまでに出会ったほとんどの人は人から愛される、ということを大小あれど望んでいる人がほとんどである。と私は思っている。
それは親子愛なのかもしれないし、友達としての愛、恋人として愛。様々な形が無数にある。
そう。いくつもの形があり、いくつもの愛を得るタイミングがある。あったはず。にも関わらず、人から愛を受けたことがない、という人が多い。
いや違う。この人から愛されたい、と思う人から正しく愛されたことがない、という人が圧倒的に多いのだ。

中々に傲慢な考えであることはご了承頂きたい。自身でも自覚しているつもりではある。しかしながら、恐らく人よりも多く、誰かに心を許して貰えることの多い私だからこそ、あぁ、この人も愛されたい人から正しく愛されたことがなかったんだな、と思う機会が多いのだ。

ここまで随分と上からものを申していることに憤りを感じる方もいるかもしれない。それはお前の妄想だ。と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。
しかし、関係性によってそこに愛が当たり前に存在するべきなのに、その愛を手に入れるということは本当に難しいことなのだと。そもそも愛が欲しいと思っている自分がいることにも気づけてないのだと。人より多くの心の深淵を覗かせてもらってきた私だからこそ、そう思わずにはいられない。

前回「愛されたことがないから愛せない」ということをぼさいた。
これを言い換えると「愛されたことがあると、愛することができる」ということである。
すなわち、愛とは愛するよりも先に、愛されなければ正しく成立しない。
1+2=3と2+1=3は同じようで同じじゃないということだ。

しかしながら愛されることを知らずに生きてくままに、愛することを覚えてしまう人が圧倒的に多い。
そんな人同士が恋人となり愛の真似事をすることでどうなるか。
もう1つ違う言い方をしよう。愛することで愛されることを覚えるとどうなるか。
「正しく愛されること」ができなくなってしまうのだ。

◎“正しく”愛されるということ

誰かを愛することの難しさ、その暴力性というものを前回くどくど言っていたわけだが、今回は愛されることが持つ無垢さ、本能性を伝えれればと思う。

まず口頭に忘れてはならないことを1つ。

愛されること、は何かの対価として
得るものでは無い。

愛されること、を考えるにあたって1番抜けてはいけないことの1つである上記を前提として、ここからを読み進めていって欲しい。

1つ前の章末にて、「愛を知らずに生きていくままに愛することを覚えてしまう人が圧倒的に多い」と言った。
これの何がいけないのか。
端的に言うと愛すること、で愛される、この順番になってしまうことがよろしくない。
本来愛されることと愛することは独立しているべきものであり、干渉を許していいものではない。
「愛の対価に愛がある」という概念が愛されること、ということに混在するべきはないのだ。

ここに愛されるということのギャップが生まれる。「愛されたことがない」人が「正しくない愛」を「愛されたことがない」人に与えると「愛に似た何か」を愛と認識してしまう。

ここで言う「正しくない愛」「愛に似た何か」というのは前回述べたような自身の愛をエゴと認識せずに「愛したい」という欲望を丸出しにぶつけることを指す。

しかしここで問題なのはそこではない。
問題なのは「愛されたことがない人」はそれを愛だと勘違いしてしまうため「歪な愛」で愛されることに満足してしまうのだ。

もう少し簡単な言葉にしよう。

「愛されたことがない人」は
「正しく愛されること」すらもできない。

愛されたことがないから愛に似た何かに惑わされ、愛に似た何かを得ることで、その愛に似た何かをくれた人へ贋物な愛を、もしくは別の誰かへ間違った愛を与えることとなる。

故に前回からのことをまとめると
「正しく愛されたこと」がなければ「愛すること」も「愛されること」もできない。ということになる。

人は誰かに正しく愛されなければ人を愛することも、人に愛されることもできないのだ。ではこれらを解決するにはどうしたらいいか。


自身が「愛されたい」と願う人に、”正しく”愛されることだ。

◎「愛されたい」は本能か、欲望か

そもそも愛されたい、と思う人というのはどんな人なのか。
やはりここでもわかりやすいのは「親」に当たる人物ということになる。
子は親に愛されたい、と願うものだ。

そこに自身の評価や遠慮、整合性などは必要ではない。
「ただそれらを考える能力がまだないだけ」
とも言えるが、それは愛されたいという誰しもが持ち合わせるその気持ちが欲望、ではなく本能、として備わっているものである、ということの正しさをより強調させるものになるだろう。

すなわち、人間は「愛されたい」と願い、そこから初めて人を愛したい、という気持ちになるのだ。
これは本能で愛されたいと願い、欲望で愛したいと思う。と言い換えることができる。

ここで本能と欲望の違いは何か、ということもはっきりさせておく。
完全に著者の主観によって書き連ねられる言葉でしかない、ということを念頭においてほしい。しかしながら、大半は納得してもらえるものであるとは思う。

本能:満たしたい、と思うものである。その湧き上がる気持ちに理由などなく、それを無視することが難しい。満たされなけばより大きな渇望となるか、心を殺して対処するしかない。

欲望:得たい、と思うものである。認識のしやすさ、しにくさはあるがそれを得ることで得たい物、気持ちが存在することが多い。得ることができなければより大きな渇望となるか、心を殺して対処するしかない。

大きな違いを見出すことは難しいが確かにそこに差があるのは間違いない。
しかし気持ちの大きさ、扱いずらさ、という点においてはそこに優劣をつけることは難しい。

だからこう考えてほしい。
本能は何もしなくても生まれるもの。
欲望は何かがあって初めて生まれるもの。

だから人間は「愛されたい」と思ってから初めて「愛したい」と思うことができるのだ。

この対象は同一人物であるとは限らない。

だから初めての「愛されたい」は親に当たる人物であり、「愛したい」と思うのは誰か、ということだ。

ゆえに親という存在は子にとって、愛されたい人から正しく愛される、条件をほぼ無条件で獲得しているということになる。だからこそ親子関係というのはもう一歩踏み込んで深く思考するべきなのだがここでは割愛。

親以外の「愛されたい人」というのは関わりや関係性を築く中で、本能のままに愛されたいな、と思うようになった人、ということになる。

◎「あなた」に愛されたい

”正しく”愛する。自身のその愛の暴力性を理解し、ぶつけないように、一つずつを確かめながら、自身の愛を疑いながら愛すること。
”正しく”愛される。愛されたい「あなた」から、”正しい”愛を受けること。自分はその正しい愛を望むことができる人である、と認識し、求めることができること。

この文字列を読むだけで”正しく”愛されることがいかに難解で、それに手をかけることすらも希少であるか。がとてもよくわかってもらえると思う。

それほどに難しいことを多くの人は主に「恋愛」という二文字の全てに任せて人は日々、愛に振り回されているのだ。

「あなた」に愛されたい。
当たり前に与えられるべき愛を望むことが難しいのは社会のせいなのか。それとも「あなた」が悪いのか。
何かのせいにしたいのに。誰かのせいにしたいのに。
ただそこにあるのは「愛されたことのない自分」だということを人はみな、認めることができない。

次で最後。
「愛されたかった」君へ。


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