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ちょっとした言葉遊び:心の地雷
よく「地雷を踏んだ」というような表現を耳にすることがある。
これはリアルに地面に埋めてある爆弾の話ではなく、それをたとえにつかった、いわゆる相手の心が一種の過剰反応をするようなことに触れてしまった時の、いわゆる”比喩”
地雷と書くとみんな、なんとなく理解できるのはなぜだろうか。
地雷という概念をみんなが知っているのはなぜだろうか、などとふと考えてしまった。
それもあるが、なぜそもそも地雷という表現が当てはまるのだろうか。
思うにそれは、”反応”だから。
そしてそれは、その人以外にとっては”理不尽”に思われるから。
そしてさらにいうと”自動的なものだから”
映画などでみる、単に前に向かって進んでいる誰かが踏んだ場所から足を上げるという通常の動作の先におおむね死に近しい結果になるような反応があれば、誰もが忌避したくなるものである。
もうしこし考えてみたい。
地雷とはそもそも何をいみするものか、役割として考えると、それは人が立ち入ってはいけない場所を示すための道具ではなかったのか、と思う。
つまりは、立ち入ってはいけないエリア、そのものを警告するための装置なのだとしたら、そもそも地雷の近くにこようとすること自体、本来は避けて欲しいものなのかなと思う。
コーチングでも、その心の地雷のようなものについて触れてしまう機会がある。今日はスクールで「どのように触れるべきか」という質問があがった。
個人的な意見としては「コーチが触れようとするな」ということなのかな、と。理想としては、設置した人が、みずから排除したいという意図を明確に示し、かつその人自身が自分から取り除くことが自分の望んだ未来に辿り着けると信じてる場合において、コーチングで扱っても良いと考えます。
地雷には地雷である意味があると思うのです。
他人はもちろんこと、本人も必要がなければ触れることは必要ないと思います。誰が触れるべきか、などと考えるまでもなく。
ということ自体僕の枠組みかもしれない。
こうやって考えていくと、いずれ胡蝶の夢に辿り着くので今日はこのぐらい。ちなみにみなさんはどんな地雷がありますか?
僕は、パソコンの画面に指紋をつけられると心の火山が爆発します。
ええ。
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