ダメな自分だって、ダメじゃない自分。
大丈夫。
誰かに、大丈夫って。いえる人になりたいと思う。
だって、ダイジョブっていい言葉。
思い返せば、人生の中でずっと「大丈夫」を自分に言ってきた。後は、自分の大切な人にも。伝えてきた。大丈夫だよって。
本当に大丈夫かどうかはわからなかったけど、どうしてか信じられた時。大丈夫って言葉が自然な音となって出てきた。
多分、若干、無責任な感じだったかも。
今日はAIに負けた。
AIすごいよ。すごい。文章力は、ぴかいちだし。なんなら、絵文字だって効果的に使う。ほんと、何を学習したらあんな文章がかけるかね。あと、自分のセッションをAIにフィードバックしてもらった。
とても。
冷静に。
フィードバック。
すごいよ。
「あれ、お会いしたことありました?」って具合で見抜かれた
気がする。
だから魂いれていいたい。
今日はダメだった。
ダメな自分を見つけた。見つけてしまった。というか見せられてしまって、いま心、かなり凹んでる。
でも、これってきっと、このAIからもらった言葉かもしれないけど、ちゃんと自分の中に取り込んで成長できるはず。負けたくない。何とはりあってるんだって感じかもしれない。
いま、コンフォートゾーンから出された。
急にたたき出されたかんじ。
急なのはよくない。けど、急だからよいとも。。。うぅ。もうしょうがない。
ということで、みなさん、エリザベス・キューブラ・ロスさん(1926~2004)の”喪失のプロセス”(死の受容プロセス)って聞いたことがありますか?看護系の職業の方であれば知っている事がおおいかもしれません。
ロスさんは、ターミナルケア、いわゆる終末期にあたる患者を多くみてこられた精神科医の方で、死を科学的に看た人なのだと僕は解釈している。彼女によると、人は死を受け入れるまでに5つのプロセスを踏むとされている。
否認と孤立
怒り
取引
抑うつ
受容
勝手ながら、平たくいうと「いやだ、違う!なんで俺なんだ!どうにかできないのか?くそ、、だめなのか。。。もうしょうがない」といったような感じかなと。
本当はもっと複雑なんだろうけども、この”死”というもの”喪失”と読み替えて解説しているブログや記事も多い。またその観点でいうと、怒りを本来の理想の自分の喪失ととらえると、日ごろの怒りに対しても、同様のプロセスが起きうると解釈してもよいような気がしている。というか今日はそれをいいたい。
今日の自分はまさに、このプロセスを経た。
AIによってもたらされた、ここ1年で積み上げていた自信はかくも簡単に数行の文章で、塵芥のように霧散したのだ。それはもう心の中では「そんな事はないはずだ」と。しかる後に「きっとこんな仕打ちを受けているのは自分だけなんだ」と孤立と怒りを感じ、「もしかしたら、AIに入力した文章のタイポなどを直せばよくなるのかもしれない?」とか回避策を思いを巡らせた後、「いや、そもそも。そもそもが良くないってことじゃないか、、、」と気づき、ひとしきり心が沈んだのを感じ、最後に「でもここでくじけててしょうがない」となった。
僕は今日、AIは自分を無条件に味方してくれるという幻想を失った。ということなのだと思う。同時に自分への期待も幻想だったと思う。
だから、タイトル。
ダメな自分も。きっとダメじゃないはず。
よし、明日はきっといいことある。