2024年月組全国ツアー「琥珀色の雨にぬれて」 (前編) 〜 “昼”と“夜”の対比、恋の人間くささ
※本記事での引用は全て、本作のセリフより抜粋していますが、覚え間違い等による誤記があるかもしれません。予めご容赦ください。
個人的にこの作品を生で観るのは初めて。
今回は演者・カンパニーへの思い入れが強く何度も観劇したのだが、観るたびに、イメージの対比や言葉同士の呼応など、脚本の構成やセリフに仕込まれた緻密な仕掛け、それゆえの奥行きに気付かされ驚いた。
その気づきを、ここには書き残しておきたいと思う。
演者によってそれぞれの登場人物の演じ方、捉え方のニュアンスもかなり変わるのではないかと思うのだが、ここで述べているのはこの月組全国ツアー版である、という前提でお読みください。
本作において、何より美しく感じたのが、相反する二対のイメージ(あるいは、人の特性)を対比させ、それが交わったり離れたりすることで物語が発展していく構成だ。一見ありがちなメロドラマに見せかけて、実はとてもよく練り込まれている。この構成の奥行きがあればこそ、何度も再演するのにも頷けると感じたのだった。
今回は、この「相反する二対のイメージの対比」が脚本の中にどのように織り込まれていたのか、から本作の緻密な構成とその魅力を分析してみることにしました。
🌙 互いにちがうからこそ強く惹かれあう、という人間描写の巧みさ
「相反する二対の概念(イメージ)」の一つ目は当然、このあらすじにもあるように、“昼”と”夜”という言葉で喩えられている、二組の男女の社会的、あるいは世俗的な属性であり、本作のメインストーリーに据えられているのは、“昼”属性のクロードと”夜”属性のシャロンの惹かれあいである。
が、個人的に本作に感銘を受けたのは、そういった社会的・世俗的な属性や境遇が共通する間柄に必ずしも恋が芽生えるわけではないこと、つまり、理性や道理だけでは割り切れない人間心理の複雑さを、巧みな構成によって描き上げている点だった。
実際、作中を振り返ってみると、「真っ当」な貴族 = "昼" 属性同士のクロードとフランソワーズ、どちらかといえば成り上がり者で日陰者 = "夜" 属性同士のルイとシャロンのカップルは、実はそれぞれ最後には破綻している。
一方で、真っ当だったはずのクロードと、恋をしないはずのシャロンが強く惹かれあってしまうことを思うと(一度その違いをまざまざと残酷に突きつけられながらも、だ)、
自分自身と境遇や社会的な属性、文化的なバックグラウンドがよく似た相手とは、穏やかに寄りそうことはできたとしても、理性をも凌駕するほどの強い感情で惹かれ合う恋は得難いのではないか…という人間の性が、そこには提示されているようにも思ったのである。
ルイとシャロンのカップルの、ルイ自身によって語られる「飽きられてしまった」という顛末もそうだ。というか、そもそもシャロンはニースのホテルでクロードに別れを告げられた傷心に寄り添われたから一時的に身を寄せたまでにすぎず、
そこから「セ・ラ・ヴィ」までの表情からして、シャロンがルイに本当の意味で心から恋をしているようには感じられないのが、絶妙な伏線にもなっていて面白い。
(そんな二組の男女を、貴族の女とジゴロの男とカップルで取り巻き彩っているのは、恋とは互いが「違う」間柄だからこそ刺激的であることを象徴し暗示する効果を持たせているのだろう)
🌙 本当は「自由で気儘」ではないシャロンが、クロードに求めていたものは?
ニースのホテルまで追いかけてきて食ってかかるフランソワーズに、あえてクロードからの結婚申し込みを告げるという形で仕返しをしたシャロンを見たクロードは、シャロンに別れを告げその場ではフランソワーズを選ぶこととなる。
ルイの口説き文句ではないが、道理に従えば、互いにふさわしいのは確かに「同じ」属性の者同士だし、「同じ」者同士でしか分かり合えないこともあるだろう。
けれども一方で、本来相容れないはずの人間のほうが、実はいつも近くにいるがあまり近視眼的になっている人以上に、相手の本質を見抜くことがあるということ、
そして人間は、自分自身の、自分でも気づいていない側面をまなざしてくれる相手にこそ惹かれる生き物なのではないか、という示唆もまた本作のポイントだ。
たとえば、シャロンの近くにいるルイや取り巻きには、彼女の「純粋無垢さ」が見えていないが、「全く別の星の住人」 のクロードだからこそ、シャロンのことを偏見抜きに「無垢で純粋」なものとして見ることができる、という構造がそれを提示していると言えるだろう。
ここで、青列車の場面でのクロードとのシャロンの様子に思いを馳せてみたい。
青列車のデッキでクロードにマジョレ湖の雨のことを語る時の、「浮世のさまざまなことを洗い流してくれるような」というセリフの、諦観が入り混じる物憂げな様子も然り、
また、クロード「オリエント急行で行けるはず」と教えられても、どうも聞こえていないような曖昧な反応のまま返事をせず、そのマジョレ湖を、まるで自分ひとりでは決して手が届かない場所であるかのように独白し続けることも然り。
どうにも、シャロンという人は、本当はとても不自由な人間であるように感じられるのだ。
シャロンはマヌカンではあるが、それはあの時代を身分のない女ひとりの力で生きていくための手段として、それが必要だったからなのだろう。
女王のように振る舞ってはいるが、酒酔い客に絡まれた時にも、ラストのマジョレ湖へ向かう列車を待つ間の場面のセリフにしても、「自由気儘」であることをどこか自分に言い聞かせているようにも感じられた。
つまり、彼女自身は自由気儘でありたいと願っているが、実際のところは多分、銀行家の伯爵のようなバックの存在があって初めてそうした彼女の在り方は成立するのであって、そこには彼女のある種の不自由さがそこに見え隠れするのである。
だから、シャロンを「『いつも気儘に』と言いながら突っ張って生きている」女と見るルイの見立ても、とても的確ではある(そして、その素直ではない生き様という共通点を自らとシャロンの間に見て、そこに惹かれているとも言えるだろう)。
その一方で、クロードはシャロンのことを冒頭から「無垢で純粋だ」と繰り返し、そのまなざしと想いをただひたむきに真っ直ぐに、何よりピュアに、シャロンの目の前に差し出すのである。
それはまさに、シャロンが自ら気付かずとも無意識に欲していたものだったのだろう。
他人や世間(時に自分自身)のまなざすファム・ファタール像に囚われたシャロンを、「自由気儘であるフリをする不自由さ」から解放してくれるのは、他ならぬ「全く別の星の住人」 のクロードしかいなかった、というわけだ。
このように、「こうあるべき / こうである」と求められる自分、あるいは「こうであらねば / ありたい」と自分自身が自らに求めている自分ではない自己像から、自分を解放してくれる相手に心が動かされる、というシャロン(あるいはクロードも)を通じた人間心理の描き方もまた、本作の味わい深いところだと思う。
🌙 人間臭いから、恋は恋なのだ
クロードとフランソワーズとの間にはおそらくきっと、穏やかで心地の良い、慎ましい愛情があったのだろうと推察できるし、それも決してまやかしではないはずだ。
一方で、恋という感情はやはりどうしたってそれをも凌駕してしまうことがある。理性や道理ではどうにもならない感情だからこそ、それは恋なのだ。
子供の頃から純真なままのクロード。(フランソワーズとは幼馴染であるから)他人に対して、はっきりとした恋心というものをおそらく自覚したことがなかったのであろう。クロードのシャロンへの想いとは、そんな彼が初めて知った、いわば「初恋」のようなものだったのかもしれない。
そして、経験豊富で謙虚で思慮深く地に足のついたご本人の人柄ゆえか、鳳月さんのクロードの恋は単なる浮ついた若気の至りとして以上に、純粋な心持ちに支えられた、紛れもない 「人生を賭けた恋」であったようにも感じられた。
ゆえに鳳月さんのクロード像は、人間臭さがストレートに感じられる嫌味のない人物であるように、筆者自身には感じられた。
だから、最後のフランソワーズからの詰問に対して「正直に言うと、僕もよくわからない」と答える様子にしても優柔不断なダメ男だから、とは思えず、ましてやイラ立つ心地も全くせず、
自分自身の心理の複雑さ、ひいては人間という生き物の性を知っての返答であるようにも捉えらることができたし、
筆者個人はむしろそんなクロードを至極正直な人間であるように感じたのだった。繰り返すようだが、とても人間臭いクロード像だと思う。
むろん、だからこそ、そうした素直で自由気儘な衝動を抑え、押し殺すのが、シャロンのセリフよろしく 「大人のやり方」ということになるわけだが。
そう、冒頭で書いた「相反する二対の概念」のもう一対は、この“大人”と”子供”という対比だ。作中における、この “大人”と”子供”の対比について、次の記事では見ていくことにしたいと思う。
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