2024年月組全国ツアー「琥珀色の雨にぬれて」 (後編)〜 “子供”と“大人”、ルイという希望
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▼作品紹介
※本記事での引用は全て、本作のセリフより抜粋していますが、覚え間違い等による誤記があるかもしれません。予めご容赦ください。
素直で、純粋、ともすれば自分の欲望にさえもどこまでも正直な、“真っ当な”貴族のクロード。
対して、ファム・ファタール的なマヌカンとして“真っ当ではない”人間として世間を生きながらも、そのクロードに作中「純粋無垢」と評され続ける、シャロン。
二人が互いの中に見ている「純粋無垢さ」を、その人の “子供のような” 側面としてみるならば、
その素直で気儘な衝動を、抑え押し殺すのが、最後のシャロンのセリフよろしく “大人のやり方“ なのだろう。
前編の冒頭で書いたように、本作は「相反する二対のイメージ(あるいは、人の特性)」を対比させ、それが交わったり離れたりすることで物語が発展していく構成が見事な作品、なのだが、
「相反する二対のイメージ」のもう一対は、この“大人”と”子供”という対比 なのである。作中における、この “大人”と”子供”の対比について、この記事では見ていくことにしたい。
🌙 “大人”にならざるを得なかった、”子供みたいな”シャロン
幕引きの一つ前の場、クロードとシャロンがオリエント急行を待つ場面の一連の会話は、
「昨日から子供みたいにうきうきして、ゆうべは眠れなかったのよ」
というシャロンのセリフから始まる。なんと可愛らしく、ピュアな言葉だろうか。
だがしかし、途中から現れたクロードの妻・フランソワーズをも巻き込んだ問答の末、最後のシャロンはどうだろう。
クロードを自ら無理やり引き剥がすかのように
「こういうのは人に知れた時にやめるべきなのよ、それが大人のやり方」
と、吐き捨て去って行ってしまう。
無論、場面の流れから分かる通り、この言葉は、シャロンが精一杯その体裁を取り繕った嘘で、本心ではないことは明らかである。
ここでのシャロンの翻意を、この “子供” と “大人” という言葉の対比から紐解いてみると、つまりこうだ。
自らの行いが道理に反するもの(既婚であるクロードとの駆け落ち)と分かりながらも、彼とマジョレ湖へ行き琥珀色の雨を見たい、という自分の欲望や願望に対して素直に行動することに喜びを感じること ── これを場面の初めの「子供のよう」というセリフで示しながら、
その気持ちに封をし、嘘を吐きながらクロードの元を去っていく最後のセリフでは、
自分の願望に無邪気に従うのではなく、それを道理で封じ込め、正直な気持ちを隠すことを求められることを「大人の在りよう」と定義しているというわけだ(*1)。
そういえば、プロローグの後、本編で初めてシャロンが登場する場面を思い出してほしい。あの真っ白な衣装で飛び出してくる姿の鮮烈さと言ったら。
無垢な羽飾りをあしらって、朝の光やまだ知らぬ世界へのときめきを軽やかに歌い上げる様はさながら、生まれたての小鳥そのもの。
よく考えるとあの瞬間、シャロンは束の間、取り巻きたちから離れて一人で歩き歌い踊っているからこそ、彼女は本当の意味で自由に、純粋さを無防備に晒すことができていたのかもしれない。
(だからこそ、その場面で初めてシャロンに遭遇したクロードにとって、彼女は鮮烈なまでに純粋無垢に見えたのかもしれない)
シャロンの中の ”子供性" を強く印象付ける冒頭の登場と、
同じ人間が ”大人" として振る舞うことを余儀なくされる去り際のラスト。
そのコントラストこそが、人の有り方の世知辛さを効果的に際立たせているのだ。
フランソワーズのセリフではないがまさに「人間って悲しい」のだなと、この作品に触れることで人生の有様の哀しみにしみじみと打ちひしがれるのは、こうした構成の仕掛けも大きいのだと思う。
🌙 “子供”のままの男、“大人”を求められる女
そう考えてみると、オリエント急行を待つ間の場面におけるそこに至るまでのクロードとシャロンの会話のやり取りの言葉も、“大人 / 子供” の対比の暗喩になっていることがわかるだろう。
自分の欲望に正直なクロードをシャロンが「駄々っ子の坊や」と宥めることも、また、最後はそのクロードを同じく「お坊ちゃん」「世間知らずの坊や」などという “子供性” を強調した表現で、嗜めるように突き放す点がそれである。
純真で自分に正直すぎる “子供” のクロード、本当は “子供” のような純粋さを秘めているのに “大人” として振る舞うことを周囲から求められるシャロン。
この男女の描き分けに見る、脚本の故・柴田侑宏の視点や男女観の鋭さもまた、舌を巻く部分だと思う。
幾つになっても「子供」性を宿した男性の脆さや未熟さ、そうした男性に比べて社会から「大人」であることを要求されがちな女性の在り方を、このクロードとシャロンの対比によって、暗に指摘しているからだ。
男性はその弱さや甘えを許されてしまうけれど、
女性は社会や世間の目がそれを許さず、本心に封をして我慢をし悲しみを背負って生きる強さを、計らずも求められてしまう。
この女性観は、夫を何度もシャロンに取られかけながら「私は自分に正直に生きることができない(実際のセリフは「私はどうやって正直に生きたらいいの」)」と嘆き、シャロンに惹かれてしまうクロードの彷徨う心に気付きながら悲しみに耐える、フランソワーズの描き方にも言えることだろう(*2)。
かつて柴田は「この作品の魅力はシャロンとフランソワーズを演じる娘役の良さにかかっている」と語ったとも目にしたが(出典不明)、
その本意は、こうした男女観、特に世間に抑圧されやすい女性の在りようを描く意図を本作が内包しているからかもしれない(*3)。
🌙 クロードの中で終わった「何か」とは?
ところで、友人のミシェルに諭された後、マジョレ湖へ足を運ぶ大団円の前にクロードが独白する、彼曰く「終わった」とされる「僕の中の何か」とは、結局のところ何なのだろうかと、考えたことはないだろうか。
ここまでの議論を踏まえると、あれはクロードの子供性、
言ってみれば「青年期」のようなものを指しているのではないだろうか。
つまり、シャロンとの恋が、クロード自身の子供性を否定される形で完全に終わったことで自分の中の青年期の終焉を痛感し、
もうこれまでのように素直に純粋な、“子供” のままではいられないことに気づいてしまった、という表現であるように思うのである。
(クロードの姉が彼を評して言ったような「まっすぐで純粋」である彼の美徳が、ついに失われてしまった、ということでもある)
だからこそ、この作品の本編が、その後歳を重ねたクロードによって、シャロンとの恋が、もう戻ることのない青年期の「美しい思い出」として追憶される…… という形で始まるのも必然、というわけだ。
そして何よりそうやって始まった物語が、シャロンの最後のセリフであり、作中最後のセリフでもある「琥珀色の雨…… 美しい思い出のよう」と呼応して幕が切れるのが、またなんとも美しい構成だと感じさせられるのであった。
🌙 本作の希望を担う、「ルイの旅立ち」
さて、最後に、ここまであまり触れてこなかったルイについて、特にそのラストシーンを考察しておきたい。
シャロンと駆け落ちして姿を消したルイだが、彼女と別れ古巣に戻って、父母代わりのノアーユ子爵とエヴァを訪ね、そして二人の元を旅立つ。
もちろんこれは、子の巣立ちそのものを描いた場面であって、つまりルイという人も、子供から大人へと作中で変化を遂げた上で、作品から去っていく人物なのだと言えるだろう。
ただ彼に関しては、実際自分の欲望に正直に生きてみたら ── つまりシャロンを手に入れてみたら ── 結局はうまくいかなかったが、人としての成長があった、という形で描かれているのが、クロードやシャロン、フランソワーズと異なる点だ。
このルイという人物は、森の場面での登場からずっと、その佇まいや表情、目線、仕草などに、勿体ぶって周囲に本心を悟られないように生きているような人であることを滲ませている(シャロンに相手にされなくても、その度に格好つけて見せているように)。
ただ、そうした様子こそ、彼が社会で這い上がって生きていくために自ずと身につけた振る舞いなのだろうとも推察できる。
そんな人物が、クロードという至極正直でまっすぐな男と出会い、心を寄せるシャロンとのことでは、そのクロードにいつも一歩及ばない。
シャロンが酒酔い客に絡まれた時にはルイもそちらを気にして席を立っているが、クロードの方が咄嗟にいち早く動いていて、結果としてそれがシャロンの心を掴んでしまう。
こうした描写から、ルイという人は、心のどこかで、素直に生きることに憧れ、素直になれないことに歯痒さを覚えていた人でもあることが見えてくる。
その後、シャロンとの駆け落ちを経て、自分も自分に正直に生きることができるという糧を得たルイ。
子爵とエヴァの元から旅立つ場面の彼からは、冒頭の森での警戒心が強く勿体ぶった雰囲気はなくなって、どこかさっぱりと清々しい表情をする。そして父代わりのノアーユ子爵に「大丈夫だ、彼は一人でやっていける」と評されるのである。
そんな彼の有り様には、人は素直さや純真さを持ち合わせばがらも、同時に “大人” として自立して生きていくこともできるのだ、というメッセージを垣間見ることもできる。
彼が素直さをその内に湛え、潔く旅立っていく姿は、世知辛い “大人” たちの人生の有様に一筋の光をもたらしてくれるようでもあった。
クロード、シャロン、フランソワーズの切なく悲痛なラストがこの後に控えてはいるが、
だからこそ、それを前にした場面で、主要な4人の登場人物の中でただ1人、その3人と切り分けられ、異なる形でルイがこの作品を去っていくことには、大きな意味があると言えるだろう。
素直に生きていくことが許されなかったクロードとシャロン(あるいはフランソワーズ)と対比されるルイの顛末こそが、本作のなかで唯一、希望の側面を担っていると言えるのではないだろうか。
人間が、人生の中で「大人になる」とはどういう体験であるのか。本作はその有り様を描いた作品でもあると、言ってもいいだろう。
🌙 柴田侑宏作品の美しさとは?
こうしてみてきたように、登場人物の心理の織りなす縦糸と横糸を丹念に描き込み、一筋縄ではいかない複雑な人生模様の味わいを生み出すのが、再演を重ねられる柴田作品の魅力なのだと、この「琥珀色の雨にぬれて」を紐解きながら、よく理解することができた。
「柴田作品はセリフが美しい」などとよく言われるが、その美しさとは単にそのセリフの言い回しだけでなく、
人物間の関係性や人となりを暗示させたり印象付けたりする言葉選びや、作品そのもの構成の仕掛けにも宿っているのだろう。
もちろん、柴田作品だからといって全てが良作・傑作というわけではないとも思うし、今この時代にそのまま上演して面白く観られるのか?という作品もあるだろうが、
ショーアップされたスペクタクル性の高い派手な演目ばかりだけではなく、しみじみと描かれる人生模様とその香気高い余韻に浸るのも、また宝塚の作品の醍醐味なんだよな…!と、改めて染み入るように感じた、今回の鳳月さん・天紫さん率いる月組全国ツアーでした。
素晴らしい公演でした!!!🌙
▼以下、本文中の注釈と補足
*1
なお、これよりも1年ほど前の場面として描かれるニースのホテルでのシャロンとフランソワーズとの邂逅では、同じ構図でもシャロンはフランソワーズに対してむしろ強気に、自身の願望(クロードと自分が結ばれること)を見せつけ押し通そうとし、それゆえにクロードから逆に別れを告げられることとなっていた。
だからこそ、このオリエント急行でマジョレ湖へ出発しようという場面では、フランソワーズに見つかった以上は、自分の気持ちを殺し、「大人」として自ら別れを告げる決断を下さざるを得なかった、というところに、シャロンのプライドの高さも感じ取れる。
*2
シャロンが本心への正直さを封印してしまうのは、その直前のフランソワーズの「みんなが正直に生きようとするとこうなるのね」というなじり言葉と呼応しそれを契機としたものだと捉えられる。
また、そのフランソワーズは、二人に「正しい道」を知らしめに来る存在であり、また自らを「正直に生きることができない」側の人間と称するため、フランソワーズ自身はこの場面ではどこまで行っても「大人」の側として描かれているようにも思われる。
*3
一方で、男の幼稚さを哀愁漂うロマンチシズムとして昇華するあたりはまさに宝塚的なクラシカルさでもあると思うし、昭和的でもあるといえるだろう。それを男役の熟達した芸によってカッコよく見せることにはそうした男性の甘さや弱さを「良し」としてまさに許してしまうことにもなるので、こうした柴田の男女観の描き方が、特に現代において、全く問題がない訳では必ずしもない。
無論、その男性の甘さや弱さをカッコよく魅せる男役芸こそがが宝塚の醍醐味でもあり、筆者自身も大好きな要素ではあるのですが…。観る人や時代の価値観によってどう捉えられるかも関わってくるからこそ、特に柴田作品など昭和の名作の再演にあたっては塩梅の難しいポイントだなとも感じるのでした。
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