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『ミュウツーの逆襲』の石化と『失楽園』の関係をより明確に読み解く
本noteは『ミュウツーの逆襲』とミルトンの『失楽園』の関係から、サトシの石化と涙の関係を探った前回のnoteの続きにあたります。
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本noteでは、前noteでの考察を前提として、サトシが石化に至るまでの間に出てくるセリフを確認することで、サトシがなぜ石化したのかをより丁寧に読み解くことを目的としています
以降、『ミュウツーの逆襲』のネタバレがあります。ご了承ください。
前回の復習
前回のnoteでは『ミュウツーの逆襲』がミルトンの『失楽園』を利用して作品が作られている事を扱いました。
今回の内容を理解する上で特に重要なのは『失楽園』book10でアダムとイブが悔いた心から迸り出る涙を流した結果、『失楽園』book11で彼らの心から「石のような頑なさ」が取り除かれた……という涙と石の関係が『ミュウツーの逆襲』にも反映されているという点です。
セリフの確認
サトシの石化の理由を理解するために、『ミュウツーの逆襲』の各セリフを追っていくことで、作中で説明されることなく前提として扱われていることを確認していきたいと思います。
まず重要となるのは、ミュウツーがミュウと対峙したときに発せられた次のセリフです。
ミュウツー「確かに私はおまえから造られた。
しかし、強いのはこの私だ。ホンモノはこの私だ。」
このセリフは、ミュウツー独自の価値観を提示しています。
彼にとって、ホンモノとはその存在がオリジナルであるか、コピーであるかは関係なく、強い方こそがホンモノなのです。
そしてその上で、ミュウよりも自分の方が強くなるように造られたのだから、自分の方が強いハズだ、だから自分こそがホンモノなのだ、という自負を持っていることが分かります。
その後、ミュウツーは執拗にミュウに対して攻撃を繰り返し、自分と戦闘するように迫ります。
そして、ミュウによる反撃を受けたミュウツーは更に闘志を燃やして、次のセリフを言います。
ミュウツー「どちらがホンモノか、決めるのはこれから。
ミュウと私と強いのはどちらか、元のお前たちと私たちのどちらが強いか。」
ここからの戦いはホンモノを決める戦いであり、生き残った方が真にホンモノとなる、という戦いにおけるルールをミュウツーは提示しています。
この発言に対してミュウは、自身の考えを述べており、ニャースはそれを人間の言葉で次のように翻訳します。
ニャース「"本物は本物だ。
技など使わず体と体でぶつかれば、本物はコピーに負けない"
と言ってるにゃ」
ミュウはミュウツーの強い方こそがホンモノであるという価値観を「本物は本物だ(仮にコピーが強かったとしても、ホンモノにはなり得ない)」と否定しつつも、そもそも体と体のぶつかり合いでは本物はコピーに負けることはないと反論します。
このミュウの言葉をしっかりと理解するためには「ポケモンバトル」と、そうではない戦い(=「体と体のぶつかり合い」)の違いを考える必要があります。
というのも、ミュウのこの発言は、この場面の前に行われていた、「ポケモンバトル」にて、オリジナル側のポケモンたちがコピーポケモンに敗北したこと前提としているからです。
ポケモンバトルと、そうでない戦いの間に存在する違いとは、「技」であり、この「技」とはトレーナーの指示に従うことを意味すると考えられます。
(指示の有無というより、トレーナーが「技」として指示しやすいように「技」と「効果」が紐づけられていることが重要だと思われます。それ自体がトレーナーに対する心の従属なのです。)
つまりミュウは「自らの心が体を動かす」のではなく「トレーナーの指示に従った」からオリジナルがコピーに敗北したと言っているのです。
このように考えると先ほどのミュウのセリフの意味が取りやすくなります。
ポケモンバトルではない「体と体のぶつかり合い」において、重要になるのは「心の動き」です。
「体と体のぶつかり合い」では、自分自身の体を自分自身の心で上手く操る事ができる方が有利となるのだから、自分たち「オリジナル」のポケモンの心の動きを模倣をしているだけに過ぎない「コピー」という存在に負けるはずがない。
つまり、ミュウは「本当に心を有しているのは自分たちだ」という事を主張しているのです。
その言葉を受けたミュウツーは、ミュウの挑発を受け入れ、その上で相手を屈服させることを宣言するために次のセリフを発します。
「いいだろうどちらがホンモノか、技なしでも決めてやる」
ミュウツーは、最強のポケモントレーナーとして、コピーポケモンを使ったポケモンバトルによって、オリジナルのポケモンたちを倒した上で、自分たちコピーこそがホンモノであることを示すために、ミュウの挑発に乗り「技を使わない」、心の赴くまま自分の力を発揮して、相手を屈服させる戦いを始める事を了承しています。
このセリフの通りそれ以降は「技」を使わずに決着をつける事を両陣営のポケモンの大半が了承し、実際に「体と体のぶつかり合い」をします。
しかし、その発言元であるはずのミュウとミュウツーはそれぞれピンクと青の力の膜(以降便宜上サイコパワーと呼びます)を身にまとい、ぶつかり合います。(01:07:15以降)
さらに、オリジナルとコピーの争いが激しさを増していく中で、ミュウとミュウツーは自身のサイコパワーを体から放出してぶつけ合い、その衝撃によって距離が離れることになります。(01:12:41ごろ)
これらの二つのことから、ミュウとミュウツーにとって、サイコパワーとは「技」ではなく、あくまでも体のぶつかり合い(=心の赴くままに自分の力を発揮した状態)である事がわかります。
そして、これまでのセリフの深堀りから『ミュウツーの逆襲』では、あらゆる動作は「心の状態が体の状態へ影響を与えた影響」というふうに考えられていることが読み解けると思われます。
つまり、「体のぶつかり合い」とは、単に体をぶつけ合っているのではなく、「自分こそが本物(ホンモノ)であり、その事を証明するために、目の前にいるニセモノを打ち倒さなければならない」という心の動きを、物理的な動作にしてぶつけ合っているのです。
ミュウツーは強くなるように造られた存在であるコピーこそ、その心の動きが強いはずだと考え、またミュウは、本物の心の動きを模倣しているだけのコピーに本物である自分たちが心の動きにおいて負けるはずがないと考えているのです。
そして、この「自分こそが本物(ホンモノ)であり、その事を証明するために、目の前にいるニセモノを打ち倒さなければならない」というこの心の状態こそが先のnoteで扱った「石のような頑なさ/stonie」に当たるモノだと、僕は考えています。
つまり、ミュウとミュウツーはサイコパワーという形で、この頑なな心をぶつけ合っているのです。
そして、サトシが身を挺してポケモンたちの争いを止めようとして、放出された二つのサイコパワーを受け止め、石化してしまいます(01:13:24ごろ)
これまで説明したように「あらゆる動作とは心の状態が体の状態へ影響を与えた結果」であること、二つのサイコパワーが、ミュウとミュウツーの自分ことが本物(ホンモノ)だという「石のような頑なな心が放出されたモノ」であるということを受け入れると、サトシの石化の理由を理解することが可能です。
つまり、ミュウとミュウツーから放たれた石のような頑なな心が、それを浴びてしまったサトシの肉体に対して、石のような頑なな動作を引き起こそうとした結果、サトシは石化してしまったと考えられるのです。
また、あらゆる動作が「心の動き」によって引き起こされている事を描き続けたことで、ポケモン達の涙にも意味が与えられます。
あらゆる動作が心の動きの結果であるなら、動作から「心の動きを予測することが可能であり、ポケモンたちの涙を流す動作は、それをする心動きが、彼らの内側にあったことを意味します。
つまり、ポケモン達の涙が悔いた心から迸り出る涙であることが(説明はありませんが)分かるのです。
そして、『失楽園』でそうであったように、サトシの心へ影響を与えた石のような頑なさは、悔いた心から迸り出る涙によって取り除かれ、心の状態が動作化されることで、サトシの石化もまた取り除かれるのです。
サトシの石化とキリストの復活
サトシの石化は、アダムとイブの涙だけでなく、キリストの死と復活も同時に表していると思われます。
というのも、このアダムとイブの反省は、その後のキリストによる二人の罪の贖い、「復楽園」へとつながると考えられているからです。
キリストの贖いとは、人類の祖であるアダムとイブの犯した罪によって、破綻してしまった人類と神との関係を、神の息子であるキリストが、人間として生きて、そしてその命を神に捧げることで、神と人間の関係が正常化することを意味します。
そして、「復楽園」とは、人類と神との関係が正常化した先に待っていると考えられる、キリストが死に打ち勝つことで約束される人類の死の克服です。
『ミュウツーの逆襲』において、アダムとイブの関係にあるのがミュウとミュウツーです。
(アダムの肋骨からイブが作られたようにミュウのまつ毛からミュウツーは作られているからです。)
また、アダムとイブの争い、そして、人類と神の争いの仲裁人となる存在がキリストです。
そしてサトシは人間の子供でありながら、その身を挺してポケモン同士の争いを仲裁することで、石化してしまいます。
石化とは実質的な死です。
『失楽園』のアダムとイブが悔いた涙を流したことで、その後のキリストの復活が約束されるのと同じように、ポケモンたちの涙によってサトシは救世主として蘇るのです。
『失楽園』を利用する事で何を描こうとしたのか
仮に、これまでの考察が当たっていた場合、なぜ『ミュウツーの逆襲』は『失楽園』を利用したことで、どんな事を表現しようとしたのでしょうか?
国外の人間も感動させることのできる国産アニメ映画を作る必要があった、という理由も考えられます。
実際、(セリフに違いがあったりしますが)海外、とくにキリスト教圏での『ミュウツーの逆襲』の評判は良く、アッシュ(≒サトシ)の模範的なキリスト教徒的自己犠牲の行為は、キリスト教系の父母から「子供に見せてもいいアニメ」として扱われていた側面は、あるとは思います。
しかし、それは結果論であり、むしろ『失楽園』の構造を使って、アニポケファンに対して伝えたいことがあったのではないでしょうか?
そこで考えたいのが、主題歌である「風といっしょに」と『失楽園』の関係です。
(歌詞を引用しようと思ったのですが、全文引用することになるので避けます。ミルトンの『失楽園』を意識しつつ、楽曲を聴いて、歌詞を確認してみてください。)
この歌の歌詞は、楽園を去り、新天地であるこの世界をさまよっているさま、そして、私たちの人生そのものを扱っていると考えています。
ニューアイランドを去ったミュウとミュウツーは、ゲーム内のキャラクターとして、あるいはカードやぬいぐるみ、ポケキッズ、プラコロなどの形で、私たちの手元へやってきたはずです。
アニメの世界という楽園は、サトシの石化と復活によって、復楽園され、私たちの世界とつながりを持つ、そのことを意識したのではないでしょうか?
(似たような主張をおこなったnoteとしてリトルマーメイドの考察があります。こちらも参考にしてもらえると嬉しいです。)
そして、これは、首藤氏が構想していた第3作の没プロットに対して、これまでとは違ったアプローチから解釈することが可能になる全く新しい視点であると思っています。
ということで、今回のnoteは終わりにしたいと思います。
今後のnoteの参考にしたいので、以下のアンケートにご協力していただけると助かります……!
今回の考察は、より多くの人に見てもらいたい、渾身の考察なので……もしよろしければ、Xなどでリンク付きで拡散してもらえると助かります……!
感想などがあれば、ぜひ「マシュマロ」に送ってください……!
また、ポケモンに関する考察として、ポケモンSVと、ミルトンの『失楽園』の関係を指摘した考察noteを投稿しているので、そちらも併せて読んでもらえると嬉しいです!!!
また別の場所でお会いしましょう
コンゴトモヨロシク……。
参考文献
ミュウツーの逆襲
首藤氏のコラム
ミルトン『失楽園』
メアリーシェリー『フランケンシュタイン』
口語訳聖書(1955)
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