自己家畜化と文明化の先に何が見えるのだろうか。

 人類が狩猟採集民から農業を始めて定住するようになってしだいに大きな集団で暮らせるようになっていくことを文明化したと言ったりするがそれを可能にした人類に起こった動物としての変化を動物の家畜化と比べるとそこに並行現象があることが指摘されて人類は自分自身を家畜化したとみることが動物学的には出来る。そこで文明化とは違う自己家畜化という視点をいれるとどういうふうに見え方が変わるのか考えてみる。

 文明化の過程が抑圧的なものであることへの反発として60年代の文化革命がある。それは野蛮さと暴力的なイメージとポップな明るさやさしさとが同居していた。自分自身をペット化して斬新なファッション未来的なデザインで楽しんでいた。怪獣のフィギュアやぬいぐるみをこどもが抱いていた。また暴力的で下品な言葉でしゃべるのがかっこいいとされていた。実際暴力的な犯罪も増えていた。夜な夜な暴走族がけたたましく都市を疾走していた。アニメの『AKIRA』の世界みたいな感じ。そしてお上品な富裕層にも下品なスタイルが貧困な下品な層にもお上品なスタイルが流入する。こうして見た目だけではスターバックスにいるお客さんみたいでお金持ちも貧乏人も区別できなくなった。これを自己家畜化の新たなステージと見るとどういうことがわかるだろうか。見せることと見られることの違いがなくなりつつあることの意味とはどういうことになるのか。文明化の新しい段階に入ったといえるためには自己家畜化的には何が実現していればいいのだろうか。
 トラがネコみたいだったりネコがトラみたいに見えたりするようなことがメディアではあたりまえにある。ヘビメタファッションで電車に乗っていても暴力的に見えてもまさか暴れだしたりするなんてないとみんな思っている。ところが、めったにないことだがナイフを持ち歩いてひとを刺そうとしてくるのが出てくることもあるので奇妙な不安感をみんな持っている。これも文明化のプレッシャーが強すぎることがあるのか自己家畜化による変貌の圧力がかかっているせいなのかそれともただの妄想によるのかどうなのかはわからない。
 
 こういうことは長期的にひとりひとりを監視してデータにとっておけば防げるには違いないがコストがかかり過ぎるし窮屈な世の中になるのでやらないだろう。かといって放置するというのも困る。自然淘汰みたいな選択が働いて落ち着いていくのだろうか。そういうのではないやわらかな社会契約的なことが求められるのか。

 社会的な問題はそれが可視的になれば進展する。デモやストライキがあった方がいい。そこに集まる人たちは自由なファッションでいいし危なく見えてもいいしとてもかわいくてもいいし落ち込んで暗く見えったっていいコスプレしたければするのがいいのだし。その時その時の問題を可視化させることがいいことなのだろう。だから決まった政治的立場とか主張はなくてもかまわないというかむしろない方が家畜らしくていいのかもしれない。
 家畜化は従順なヒツジのイメージから抜け出している。そして一度は村上春樹のキャラクターのように危険なものになりファンタジーになってようやく回帰しているのがこれから先の展開になるのだろう。
 危ういような恰好をしてしかもそれは安全だと他人に伝わるようになることは可能なのだろうか。自分で自分をコントロールして衝動的な行為に出ないようにできるように自己家畜化を進めることは何がどう変わればそうなれるのだろうか。

 お釈迦さまの前世の物語に一風変わったものがあってそれは前世のお釈迦さまが世のおきてを軽々と破って母親の顔を踏みつけて家を飛び出して自由気ままに悪事を働いてついに社会の果てに達して自分のような悪い男が縛られて地獄の責め苦を受けさせられているところに来てしまうという話がある。縛られた男の頭の上には燃えさかる鉄の輪が回っていて男を責めさいなんでいた。男は俺のような悪い男が来たので俺は解放されると喜ぶのだった。代わりに縛られた男になった前世のお釈迦さまはもう自分のような悪い男が来られない様にずっといつまでも縛られ続け燃えさかる鉄の輪のいつまでも責め苦が続くようにと喜ぶのだった。その時世界は感動して鉄の輪は上に去った。前世のお釈迦はやがて死んで上昇して兜率天になるのだったという話がある。ここには悪の報いということをはなっから問題にしない真っ直ぐさがある。超越的な力によって改心させられるということがない。またよく考えて自己反省していくというのではなくていきなり俺はずっとここにいようと思う心を持っている。輪廻転生を繰り返していつかはこうなる。こういうのが新たな自己家畜化なのだろうか。仏教はこういうように自己家畜化と相性がいい感じがあると思う。

 このままではテクノロジーの進歩は管理できないだろうし事前にどういうテクノロジーが危険なのかよいものなのかは判断できない。だから結局それは一人一人の判断に任されるまかされるほかはないだろう。

 文明化は超越的な力である。そういう力に依存している。自己家畜化はそうではない。テクノロジーの進歩のスピードは加速していくからいずれ文明化は追い越されてしまうだろう。自己家畜化は曖昧で目標にできるような明確さを持つことが出来るのだろうかというとそれは無理で目標にした時点で単なる抑圧になって文明化のパロディにしかならないだろう。

 心はどこから来るのだろうか。文明化されることからではないだろう。それ以前から心はあるようである。狩猟採集民に心があるのは自明なことだ。心には暴力性や野蛮さをコントロールする能力がありそれが人間性を特徴づけているということには異存はないだろう。人間を人間性に導いたのは自己家畜化のプロセスであるだろうと思いたくなる。
 
 では心とはなんであるか。おそらくそれはそれは広さである。エントロピーを解消できる広さである。現実的には突然の衝動を無効にできる広さでそれがすぐに外に出てしまわないようにできる臨機応変な拡張性である。衝動に支配されないこと。いきなり誰か他人に暴力を振るわないでいられること。こどものころはよくそんな喧嘩をしたものだったね。これは自己家畜化と同じことかもしれませんね。心はある種の二重構造になっているのかもしれない気がしますね。ところが、自分で自分の二重構造にアクセスすることはできない。そのためにはほかの人の存在が必要でコミュニケーションの循環によって心は広がることが出来た。自分で自分のことができるようになりなさいというのはこういうことがあるなら危険なことなのかもしれない。テクノロジーの進歩によって可能になるのかもしれないが何処かに陥穽が落とし穴が出来てしまう。
 
 猫の生態の話を読んだときに印象的なエピソードがあって、猫は体が柔らかいのでかなり自由に自分の体をなめることが出来るのだけど自分の頭はなめることが出来ないので他の猫に頭をなめてもらうという。もし、猫の世界のテクノロジーの進歩があって自分で自分の頭をなでなでできるようになれば猫の世界はどうなるのだろうか。なんかつまんない退屈な世界になってしまうのだろうか。テクノロジーの進歩が気がつかないうちにこういうことを近づけてしまうという落とし穴に意識的でないと心が狭くなってしまうかもしれない。自己愛や衝動性を逆に誘導してしまいかねないから危険だ。
 猫がほかの猫を受け入れるというのはある種の自己家畜化といえないこともない。ほかの猫を受け入れるというのは勇気ある行為かもしれないけどそれを可能にするのは攻撃性をコントロールして猫パンチのレベルにできることがあったからかもしれない。これは遊びの習慣から学習されるのだろう。
 遊びは遊具などをそろえてやっても期待どおりにペットの猫ちゃんが気に入って遊んでくれるというものでもないことが多い。ここには自発性の問題がある。

 文明化とは端的に言えば統治機構が実現する社会である。野蛮な暴力も残虐な行為も性的なディスプレイも権力によって抑え込むことによって実現する豊かな社会のことだった。それを大多数の人が歓迎している。しかし暴力性も野蛮な行為も特に性的なディスプレイもイメージのなかでは魅力的でそれを求めている。統治するだけでは退屈になってしまって生きる気力が萎えてしまう。そういうことなので、いけない魅力にあふれているイメージをみんなで見て楽しむことができればいい。そこで劇場をつくったのだった。祭りをして劇的な体験でリフレッシュするわけだ。文明化で大規模な集団が可能になり多くの人が自発的に集まって祭りに参加する。特別な劇的な体験をみんなで同時に同じにすること。文明化は都市化で資本主義化していくと自発性は誘導される自発性みたいなものになるかわっていく。国民国家は侵略戦争と暴力革命のモードに誘導されて世界戦争と世界革命に入ってしまった。それはさすがに耐えられず鎮静化して先進国は平和モードに入ることが出来たが自発性は抑制されてしまう。自発性は商品経済の消費行動になってさらに誘導されるものになっていく。こうして祝祭は劇場化して市民は観客になってしまう。今度は観客たちは退屈してくる。また自発性を誘導することが求められてそれはインセンティブとモチベーションとなる。市民革命は文化革命になり社会変革は消費行動になってカウンターカルチャーはサブカルチャーになる。
 文明化は細分化をすすめて生活スタイルは個人化してコミューナルのものは退場して都市の祝祭はまたかわっていく。都市の祝祭は祭日のイベントになり行政が主導するか広告代理店が仕掛ける商品になる。形も実態も持たない情報になる。そうしてイメージをめぐる競争になり大金持ちの俗物たちのパーティーになり問題含みの見せびらかしの無駄遣いになる。自分のことは自分で決めることがイメージの多様性になりミクロなメカニズムが誘導するミクロな自由とミクロな権利をどう受け入れられたらいいのか誰も知らない。
 こうしてまた野蛮さや暴力性がミクロなプライベートなコントロールしていくのが難しい不可視の場所で起こることになる。文明化の必要が求められることになってどういう権力が必要なのか模索することになる。ひとりひとりを「文明化」しなくてはならない。啓蒙主義で説得することはイメージとしてはダサく見えるのでテクノロジーの進歩が解決するようになるだろうという楽観的なのか悲観的なのか判断のつかない解をおそらく起業家かコンサルが提供することになるのだけれど専門家でなければわからなくなってしまうのかもしれない。こうして一般人にとっては曖昧なイメージに過ぎないものなのかもしれないけれどもまた「人間性」を何処かで期待しているようななにかになるのだろう。キャラクターを模倣してコスプレのように装ってその声を借りて話すことが日常になる。「好き」か「嫌い」かの「主観的判断」だけになるというかそれしかない。ところがそれは意味内容も根拠もない。ただ予測可能性だけがある。安心安全快適が持続することで経済はうまく回り不安感はその都度その都度感じられる身体的な無意識的な反応をいち早く読み込んで迅速に処理される。という建前を信じているふりをすることで、そんなわけないじゃんと利口な人は思っているけど、一般人にとっては、安心安全快適はさらに循環する。ところがもともと空白感と空虚さでしかないのでそこに何が入ってくるのか皆目見当がつかなので逆説的にいつでも危機が起こっても不思議ではないのだ。危機が予測されるとすぐにそれを消し去る対応がつくりこまれているという前提で物事が進んでいるので実際に危機が起こったときには責任の主体はいないし逆にそれを受け入れたシステム商品として買った方にも問題がないとは言えないというおかしなことになって結局のところ訴訟で争うことになる。
 誰もがモラルをかたどるキャラクターを模倣していることが前提になっているから人びとは安心安全快適でいることが可能になっているのだ。
 何が正しいのか考えて実現すべきプランをつくり目標達成にまい進するとかいう人間に出会ったら誰でも逃げ出したくなるのではないだろうか。よりよい明日を目指すとかいうのは広告代理店だけが特権的につくってタレントやアイドルあるいは企業人か政治家に言わせるセリフであってそうでなければ怖いカルトだと思われる。それでもこういうキャッチコピーがつねに求められていてそういう声がなければ真っ当な消費社会は壊れてしまう。欺瞞的ではあるけれどそれをたたいても誰もうれしくないのだった。

  メディアのなかにある人間を表現したものはいろいろとある。大きくとってみるとそれらが分散しているようすがわかる。インターネットの中まで入れてみると相当広いところまで広がっている。文明化の文脈に沿った表現やビジネスや消費社会のアイコンのようなものや政治的なイデオロギー的な関心を惹くようなものとかいろいろある。しかし多くは意図的なものではないただの動画だったり映像だったりする。これらを、文明化の文化的な資本主義的な領域と自己家畜化とただの際立った特徴のない人間の領域に分けることが出来るのかどうか。大きく分かれるのはテクノロジーの進歩が拡げていく領域とあまり変わらない変化のスピードが遅い領域に分かれていくだろうと誰もが感じていると思う。こういうことがあるならこの二つの領域に特徴的な表現が出てきているだろう。それは著しく違っているのかどうか。もちろん見かけは物凄く違っていることもあるだろうけれど直感的にはおそらく同じ何かをさしているような表現にみえる気がする。

 エッジな物事の起こっている中心からはるか離れて人々は生きている。情報社会はあらゆるところをつなげてひろがるからみんなそういうことも知っている。というか、調べてみればそこに引っ張られて詳しく知ることもできる。

 この世界はどんな感じなのだろうか。直感的な手触りみたいなことで表すとどういう感じなのだろう。
 文明化の手触りというなら「石」かもしれない。鉄でもガラスでもプラスチックでもいいけれど大きな石でできた建造物。滅んで後には砂があるだけなんて感じのピラミッドとか。
 自己家畜化というようなイメージを抽象的なところまで広げるならそれは「木」の手触りかもしれない。木というのは火とつながる。木と火で生活する小規模な生活のシステムが可能になるためには至近距離でいても緊張感がなくなりむしろ逆に信頼感や愛着形成に逆転することがすすむことがあったのだろう。でも火は攻撃にもつながる。

 「木」の表現と「石」の表現、植物と鉱物、未開と文明、小規模と大規模、記名性と匿名性、などなど。

 文明化にはどういうのか廃墟が内包されているので悲観的な気分があるとすぐそんな廃墟のことを思ってしまう。災害でも戦争でも疫病でもなぜか文明化につきまとうものに思えてしまう。文明の時間は頭が良すぎるからそういう静かな美しくもある廃墟を追い越して金融ビジネスのダイナミックな恐慌という何もかも吞込んでいくような盲目の欲望そのもののような呪われているような場所を廃墟の代わりに持ち出してくる。もうそれは悲観的で止まってしまうようなものではなくてさらに莫大な金額を突っ込まなければ止まってくれない欲望のけた外れの戯画である。ここで文明化は統治することをよくわからない欲望の力に突破されてしまった。欲望は文明化を追い越して吞込まれている文明化は欲望に衝突しない限りで機能するようになる。欲望が湧き出してくる盲目の夥しい衝動と同期しない限りでは良好な成長をする経済になっている。文明化はいきなり加速する時間で区切られるようになるのだろう。その都度その都度巨大化するビジネスの内包する崩壊するプロセスは新しい何かを創りだしていくのかもしれない。恐れることがない恐怖を感じることがない自己愛にいっぱいになった欲望そのものような人間たちが舞い踊っている。そして超新星爆発がすべてを消し去るというのではエンタテイメントとしては古すぎるかな。言いたいことは明日言えと言われそうだが、文明化は飛び越したら駄目、追いつくまで止まって道草でもしてましょうね、わたしのあなたのみんなの欲望さん。つまり、欲望を否定するのではなく欲望が満足して遊べるような広い可能性のある面白いいろんな試みをして広さを創りだすことです。そういう文明化した時間を意識しましょう。

 文明化の時間とは違って、自己家畜化という生きものの時間は「木」の時間で、一斉に花が咲くような熱帯雨林のようなゴージャスな時もあるけれどゆっくりと時がたたないとどうなってるかわからないから楽観的でも悲観的でもないそれほど振れない動きの時間であるような気がする。  

 植物の時間に木の時間に一時は集中してみる。廃墟になっても春が来て夏が来れば草ぼうぼうに秋が来て冬になれば枯れて消える。木は成長して人の姿みたいに見えたりする。この曖昧さのなかから人間たちの世界を見てみることをしてみれば一息つけるかもしれない。

 文明化するのはまず空間であった。空間をつくるとはハコをつくるイメージをつくる場所をつくる。そこに収容される人間は空間化される。ハコとイメージと場所に忠実な人間になる。これを逆向きにすることが可能でなければならないのだが人間の自発性から出かけていくことになるとしばらくは結構長い時間を観察に費やさなくてはならない。こんなことをいくら続けても目的の空間はいっこうにやってこないだろう。つまり空間なんてものはもともとからどこにもないのだ。あるとするならそれぞれの場所の上にそれ特有な空間があるだけでそれぞれの場所とそれぞれの場所を一緒にした一つの空間があるとは言えない。ひとつの世界とはひとつの空間ということであったのだった。それは一つの場所がすべての場所を統合するといったことのようだった。まるでそれは天動説。
 イメージとは空間のことだ。空間とは世界のことだ。世界はイメージでそういうもはどこにもない。とはいえ、だれでもイメージを受け取ることが出来るからイメージが無意味だとは思はない。イメージを受け取ると人間は動き出す。こういうことを思いいきり抽象化するとどういうことが出てくるか。
   
 チューリングはコンピュータを人間の比喩だと考えた。人間は充分に考慮されたことであるなら物理的にはともかく理念的には実現できるそのような存在であると提案した。これは文明化した人間のことだとも思えるがそれだけではなくて自己家畜化ということにもつながっているとも思える。
 コンピュータというものはアイデアとしては空間的なものではなくて時間的なものである。チューリングはもともと彼の理念的なマシンを人間に解くことが出来る問題とそうでない問題とは何かというヒルベルトの問いに答えるために考えた。ある時間がたてば計算が終わり答えが確定する問題といつまで経っても計算が終わらないことがありうるという形でそれに答えを与えた。またあらかじめ問題がとけるかどうかを事前に決定することはできないということも示した。このことをどう考えるかというか思うのかについて誰でもが自分なりのしかたで対応することになるだろう。つまり時間のなかでどうするのか。

 コンピュータは文明化のある種の最終形でどんな形にでもなってわれわれ人に対して対応していくだろう。抑圧的でもなければ協調的であると始めから決めてかかれるものでもないだろう。それは人間と同じようなものだ。
 人間は自分のいる場所で自分のできることを確認して行為するのと同じようにほかの存在に対してもそうあってもらいたいと思っている。いつでもどこでもこの場所どこかまったく違ってる場所であるに関係なくそういうことになることはありえないので自分のこと第一というわけにはいかない。だからね、文明化の最終的な現在形であるものにもそういうことを望んでもいいよね。つまりいろいろな存在がこの地球にはあるけれどそれぞれにもそれがそれの性質がある程度はそれらの時間のなかで確保できるようにしてもらいたいということだ。強力で一意的に見えるようなエッジなイメージにはならないようになればいいと思う。闘って勝ち取るということを否定するのではないが一気に決着を目指すという時間ではない時間のなかでそれをするのならそっちの方がいいだろうと思えるようになればいろいろな存在の自発性も救われるだろう。暴力的に持続している時間を切断してしまうのは遺恨をのこすから。象徴的な強力なイコンのようなイメージから距離をとれる余裕が欲しいわけだ。遅い資本主義ゆっくりな商品経済いろいろな速さのある消費社会というような感触が感じられるのがよい。アマゾンやグーグルとかがすべてでは困ることが出てくると思う。もちろん強烈に加速することがあるのもよいことなのでそれはそれ。何が見たいのではなく何が見えるのだろうか。それは自分ではない存在とのやり取りからおぼろげに浮かび上がってくるのだろう。小説、漫画、アニメ、映画、テレビドラマ、スポーツ競技、エンターテインメント、アミューズメント、経済、政治、友達、つき合ってる誰か、一緒にいる人たち、知らない人たち、さまざまな街たち、交通機関、いろんな乗り物たち、建築たち、風景、旅行、などなど。

 文明化とは自己家畜化ということとは何だろうかというとそれは贈り物なのだろう。だから返礼しようと感じる。それがとんでもないことに行き着くと地球丸ごとおじゃんになって何回目かの大絶滅もありうるしそこそこ何とかちょっとずつみんなシアワセになれるのかもしれない。贈り物は喜んでばかりではいられないこわいものなの?

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