エネルギーを使うことを最小化することお金を使うのを最小化すること生産性を最小化すること、それでどうやって楽しく生きていけるの?冗長に暮らしていくのも悪くない?

 現在の社会は豊かな生活が実現している。豊かであるというのは選択肢がたくさんあって快適で迅速に対応してくれるサービスがあることです。高度に複雑なマシンが高い信頼性を実現していて安心安全に何処へも出かけられるし災害などで止まってもすぐに復旧できるような組織を持っているので安心です。もちろんそれは巨大都市に限られるのかもしれませんが巨大都市を繋ぐグローバルなネットワークのサプライチェーンでロジスティクスが構築されているので大都市であればそこの住人たちには安心安全を維持できるだけでも巨大都市の生活は最良なことだと思われているでしょう。
 巨大都市ではつねに新たなイノベーションが起こり様々な人々や様々なアイデアが出会う環境が整っているので退屈することはありません。住みたい街も決まってくるし眺めるには申し分なしです。お金が充分にあればですがね。もちろん必要とされるエネルギーは膨大なものになりますが原子力発電で賄うことができます。しかしこういった恩恵が誰にでも届くのかというとどうやらそれはありそうにもない。
 では届かない人たちはどうすればいいのでしょう。まったく届かないということはないので「最小化」というのがキーワードになりそうです。
 豊かな社会には買ったものでも使われていないものがたくさんあるので安価にオークションサイトなどで手に入れることもできます。ものが家にある一方で、人材が減少して来るので必要なサービスを頼むにもお金がより多くかかるようになります。丸ごとそれを注文するのではなくそれを安価にすることが考えられるようになります。
 お金が充分にはないのならそれには必要とされるものを細かく分けて自分でできることや知り合いに頼んで一緒にやればできそうなこととか、代わりのものを考えて調達するとか工夫をすることになるでしょう。むかしのテレビドラマにあったように引っ越しするときは身内や友達に頼んで一緒にしたものでした。今は業者に丸投げできるから便利と言えばそうなんだけど引っ越しは面白かったイベントでありました。
 人口減少で安価に業者に頼めなくなれば、豊かで便利で快適な環境を望むことから、自分にとって豊かで便利で快適でしかしみんな忙しいからひとりで暮らすような周りにたくさん人がいるのに親しい人はそばにはまったくいない寂しい生活からちょっとめんどくさくてもうまくやれれば賑やかで楽しい生活ができることに変えていくみたいなことになるでしょう。
 ここでも「最小化」です。というか冗長性です。エネルギーをふんだんに使うのではなくなるべく少ししか使わないで済むやり方を求めることになります。それは生活することに関する必要な作業を単純なものに分解してそれらの組み合わせで賄えるような生活のなかの活動している範囲をなるべく小さくした場所があればそこに親しみも持てるようになって、新たに小さくはあるけれど楽しいフレンドリーな新しい街が出てくることになるかもしれません。いろいろと生活のしかたの組み合わせを自分で試してみればいつの間にか知り合いも増えるだろうしまぁそういうのっていいんじゃないかとなるかです。
 巨大なエネルギーをかけて大規模で美しい輝く都市をつくって高度な技術による複雑な労働を必要とする生産性の高い加速していく不特定多数の匿名な巨大な人間たちの流動性から弾き飛ばされるのも悪くはないと思えるように今から想像してみるのも悪くはないのかもしれません。

 巨大都市のイメージは精悍なジェンダーフリーな特に男性とも女性ともはっきりしないような不確かな人間たちが複雑に整列して動いているイメージですが、小さなフレンドリーな街はそれなりにおしゃれなちょっとくたびれてもいる生活感もあるおばさんのイメージかも知れません。こどもや年寄りがあるいていても野良猫がいてもちょっと不適切な人間であっても敏感に反応したりしない余裕のもてるところであればいいでしょう。
 巨大都市というのは地理的に最適なところに立地しているわけではありません。気候変動の引きおこす災害や大きな地震対しては案外脆弱な場所が多くあってそれほど持続可能なところではないのかもしれません。おまけに人がたくさんいてもひとりひとりはまるで見知らぬ人ばかりで臨機応変に協力し合えるとは期待できません。巨大な数の人間たちがそれぞれが自分の行きたいところに自由に動けるほとんど摩擦もなく行き交うことのできるように互いに自由で無関心で最低限の情報があればそれで充分であるというどこもかしこも小さな子供が一人ぼっちになったら途方に暮れる場所ばかりなそういう世界です。基本的には独りぼっちが前提な世界というものがあるというのはそのこと自体がオドロキで奇跡のようなことです。たぶんそこには表にあらわれることはないかも知れない人びとの心遣いがあるのでしょう。しかしいつまでもそれが維持される保証はない気もします。おそらくこうした巨大都市というのは人々にとって大きな負担をかけているのかもしれません。
 
 都市で暮らしている人にはたいていお気に入りの場所があります。おそらくそこではその人は独りぼっちではないのかもしれません。しかしそうでない人もいます。そういうひとには心理的な安定が保てるような支援が必要でしょう。変な話ですがたぶんこの世界には大人の保育園というか幼稚園というような場所があるのかもしれません。あるいはずっと長く続く友達のいる人もいるでしょう。こういうことを大規模に調査するようになるかもしれません。

 もともとは都市に典型的な不特定多数の匿名な存在というのは近代の産業社会の労働が要請してできた存在様式でした。どういうことかというと労働の現場では労働者の活動は専門分化していき考えることと行為することが別々に切り離されてそれぞれ独立して扱われる。新たな概念を理解することと、それを実践に移すことは別々なことになる。こうしていったん分解されて職場に戻されてセットされて労働をすることになる。思考と行為は労働者としてはともかく人間としては必然的なつながりがなくなっていきます。こういう「必然性」を或る意味で欠いている存在様式は誰であっても不都合がないようになるので不特定多数の匿名なということになるのでありました。
 というわけで一人ぼっちの小さな子供のように途方に暮れる時には誰かに、ひょっとするとそれは労働の様式で身につけた分離されたもう一人の自分に助けてもらって、自分自身の大人の保育園だか幼稚園高に回収されてもらうのでした。労働者っていうのはなんだかとっても不思議な存在のようですね。意図されない能力が身につくということもある?
 自分をいくつかのものから成るその場その場で要求される課題に応える形で自分を組みなおして行為するという能力は不思議なことに自然の場の中に置かれたときでも、もともと自分のなかにあった興味を取り出して同じようなそばにいる他者と共に行為することもできる可能性も示唆するようでもあります。
 自然とは真逆の巨大なスタジアムで数万人規模で集まるコンサートやスポーツイベントにも協調して一緒に楽しむこともできる。これは前近代の人にはとても難しいことなのかもしれませんね。自分にセットされた様々な思考とさまざまな行為をそれぞれ切り離してきて特定の場所で実行するということは不思議な能力であるのかもしれません。
 具体的な人間を理解するということは何処かこうしたことから来るのかもしれませんね。身近な人を理解するというのは案外こういうことからな感じがある気がします。たとえば自分の親とかの場合は、親は、父親も母親も客観的に自分のことを順序だててわかるように説明したりはしない、だからそんな感じですね。技術的に進歩してアンドロイドになっちゃった時にはそうかもしれないですが。
 労働者から離れて巨大都市についても似たようなことは考えられるかもしれませんね。巨大都市のイメージであるジェンダーフリーな精悍なひとたちであるその中の一人がときどき分かれてやってきて普通の人になって小さな街に溶け込んでいくことをするかもしれません。それはあなた自身かもしれない。それはちょっと疲れたおばさんであったり精悍なアスリートのようであったりするのかもしれない。それはまた途方に暮れるこどもかもしれない。巨大都市はリバイアサンであるのかもしれないがずっとそのままであるということもないのかもしれない。「最小化」と「最大化」。
 「最大化」から「最小化」へ移るのなら物事は複雑なものから単純なものへと変わるでしょう。これは退化するというのとは違うと思います。複雑性は複雑なことから現れるのではなくむしろ単純なことの組み合わせから起きるようです。「最小化」ということは他のものとの組み合わせのプロセスの始まりであると考えてみましょう。ゆっくりと時間の推移にしたがって様々なものたちと相互作用をしていく。自然のプロセスというものがあります。自然のプロセスにははじめも終わりもありません。そこには明確な目的というものが存在しない。別の言葉で言えば循環なのです。目標を立てるということは大きなエネルギーを持ってこなくてはならないし短い時間で物事を終えなくてはなりません。人間は年老いるし時間は待ってはくれないからです。むしろ循環の立場からは目標は立てるものではなくてやってくるものであるのでしょう。だからその時期に気がつきそれを逃さないようにすることができるようになることです。そんな感じで「最小化」というのは「最大化」ということと無関係というのでもないでしょう。見方を変えろということに過ぎないのかもしれない。「最大化」とは高度になっていくテクノロジーのことだと思うとすると「最小化」とは個々具体的な物事をすることではなくむしろ世界を環境を美的に経験することであるのかもしれません。だからこの美的な体験と相補的に機能するようにテクノロジーを調整できるような設定にしていくことであるでしょう。またそのようにして機能するテクノロジーに対して相補的に新しい美的な経験を創りだすことでもあるでしょう。
 「最大化」は分散しているものを統合して集中していくことだけどそこで創りだされるテクノロジーは多様なものの競争を促進させるので逆な方向に進んでいくものもないわけではないから新たに分散化していく方法に意味があるならそういうものも見つけられるかもしれない。リダンダンシーということに興味が出てくることが関係性が冗長性に向かうことだって有り得る。まぁそんなことを想像できないわけでもないでしょうということを言いたいのであった。近代以前の世界では、たとえば誰もが好きな時代劇の江戸の町ではそんな生活の景色が演じられています。学問的にはレヴィストロースが言った野生の思考のブリコラージュとかいうものかもしれません。未来を呼び出すには過去にもどってみるのが面白いのかもしれませんね。プラス素敵なテクノロジーがあれば楽しそうですよね。たまにはこういうどうでもいいことを思ってみるのもいいと思いました。

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