10歳から人生が変わった,その7

 私のの場合
 五年生の一学期が終わる頃、母が真剣な顔で「ごめんな、いろいろ頑張ったけどもうダメなんよ、お父ちゃんとお母ちゃん、離婚することになったから」と、私に話す。
「えー」しか言えなかった。もちろん、大変なんだと言うことは知っていた。父は商売をしていて、私が生まれた頃は、大きな紡績工場の近くでお好み焼き屋をしていた。女工さんたちが来てくれるそこそこ繁盛していた。父はアイデアマンで今では当たり前に見る、スタンプカード、十個貯まったら割引、カードが5枚になったら旅行を企画など、当時は地方から働きに来ている女工さんたちのために、みかん狩りなどのバス旅行を企画していた。好み焼き屋さんのあとは居酒屋。これもアイデアで、八角形の大きなカウンターの中に厨房があり、焼き物などお客様から見えるスタイル。そして出来上がった食べ物は長い木のしゃもじにのせて出すというのが珍しがられ、とても繁盛していた。儲かってはいたが、もうかった分、豪遊、博打など派手にお金を使う人だった。
 遊びに行くと何日も帰らなかったり、ギャンブルで売り上げを全部すって一文なしで、帰ってきたりするので母との喧嘩が絶えなかった。人が喜ぶことが好きで、社員旅行と称して、毎年温泉旅行や、あの大阪万国博覧会にも従業員全員連れて行き散財していた。当時居酒屋が流行っていたにもかかわらず、知り合いの紳士服店まだ請け負って事業を拡大していった。それとは裏腹にお金は全然なく、母の怒りもピークだったのだろう。居酒屋で成功するからという父の口車にのり、母は居酒屋を手伝っていた。だから私も夜はご飯は早めの居酒屋のカウンターで食べ、カウンターで宿題をしていた。しかし、儲かると何日も帰って来ない日が相変わらず増えていた、母とボート場や競輪場に探しに行って、館内放送で呼び出し、父からお金をもらうと言うのが日曜日の母と私の仕事であった。
 もう、限界だと、母は当時募集のあった幼稚園の用務員の試験を受けて、結果的に市の公務員となった。安定したお給料をもらえゆようになり、自立できると考えて離婚を考えるようになったそうだ。母には大変な夫だつたが、子どもには。優しい父だった。たまに帰ってきては、ドライブに連れて行ってくれ、なんでも好きなものを買ってくれた。私は父の愛情を試す様に高いものを選んでねだっていた。ある日自分の大きさと変わらないくらいの熊のぬいぐるみを買ってもらい、エルちゃんと名付けて、いつも一緒にいた。
 だから父が母と別れて私から離れるなんて!と、正直ショックだった。
 家族という一番身近な形態が壊れることが理解できなかった。
 でも母が、「お母ちゃんは、お父ちゃんと別れてもちゃんとお給料もらつてるから。お金の苦労はかけんからな。お母ちゃんについてきて、おんなじ様にお父さんがおらん人たちが住む、お家に入れることになったから、寂しくないからついてきて」と、真剣に話してくれるので、ついに折れて、離婚に賛成することにしたのだ。みつえ五年生二学期前の夏休みのことでであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?