10歳から人生が変わった

2️⃣  ひでこのかあちゃんの場合。

 地元では有名なかまぼこ工場に勤めているひでこのかあちゃんは、今でいう,いわゆる知的障害者だった。朝九時に出て三時ごろ帰る。帰ってきて、寮の玄関を入ったとたんに「ひでこー」と大声で呼びながら自分の部屋に入っていくのである。
 その頃の母子寮は六畳と三畳と小さなキッチンとトイレがひと世帯に与えられていた。お風呂は共有だった。そして一階には大きなリビングのような部屋があり、大きなテレビもあるので、結構部屋から出てきてみんなが集まっていた。
 ひでこのかあちゃんのいいところは、ひでこが大好きということ。ひとしきりひでこの名前を呼び、ひでこが部屋で勉強している姿を確認すると、すぐ共有のリビングに出てくる。そして、どんなにひでこがいい子か、どんなに可愛いか、ベラベラと話し出すのが日課である。
 みんなそれがわかっているので、その時間帯には、リビングに行かないことになっている。それを知らない私が,毎日ひで子自慢を聞くお役目を果たすようになった。
 天ぷら油とお魚の匂いを我慢すれば、それはそんなに嫌な時間ではなく、私は「ひでこー」の声がすると、そそくさとリビングルームに出るようになった。「ひでこはなぁ、字が上手でなぁ,教えんのに保育園から、書けてなぁ、うちとは違うて頭がええんじゃ〜」
 とか、ひで子が初めて喋った言葉が「まんまじゃったんよー。保育園の先生が,やっぱりママが1番なんよと言ってくれたけど、うちゃー,ママやこう呼ばせてねぇから、かあちゃんじゃから、まんまはご飯のことゆうたんじゃわー、」と豪快に笑う。ほとんどがこんな感じの話なのだが、「うちゃー」とじぶんのことを言うコテコテの岡山弁と愛情溢れる眼差しが心地よく、まるで、ひだまりで落語を聞いてるような感じだった。しかし本当の季節は,太陽がギラギラでエアコンなしではいられない夏の昼下がりである、自分達の部屋のエアコンは節約して、リビングルルームにきたがっている他のママたちが今か,今かと、ひでこのかあちゃんの大声が収まるのを待っている。
「おばちゃん,私もそろそろ宿題しに帰らんと」
 と、私がいうと、「ほんまじゃなぁ,わからんかったらひでこに教えてもらわれよ,何でもわかっとるから、うちと違うてひでこは天才じゃから」 ひで子ちゃんはまだニ年生,私は五年生なんだけどと思いながら、「そうじゃ、そうじゃ、ひでこちやんは、天才,天才」と手を振って部屋に入る。 ひでこのかあちゃんが部屋に入ったとたん,今度は他のおばちゃんたちの声があふれかえるリビングルームになるのである。          そのおばちゃんたちのよもやま話では,ひでこのかあちゃんは、訳もかからずキャッチセールスに連れられいろいろ宝石とか買わされローンも組まされ、そして体まで奪われていたのだが,本人はお腹が大きくなるまで分からず、気づいた蒲鉾屋の社長が市役所に連れてきてここにきたらしい。
 父親のことは何も言わないが、ひでこはかわいい,天才ということが彼女の生きがいだと,みんな認めていた。まだ三十代後半なのに、全く化粧もせず、輪ゴムでしばった髪に作業着という飾らないそのまんまのひでこのかあちゃん。その姿を見ているだけで、自分もすごく親から愛されていると思えたし、嘘がないひでこのかあちゃんを私は、日に日に好きになっていった。
 本来ここは、母子の自立支援であり、通常は半年,長くても一年が規則らしいが、ひでこのかあちゃんはもう四年もいるとか。当時は社会も,ルールも優しかったのだろう。今よりうんと。
 いろんな大人がいていろんな人生があると、なんとなくわかりだした十歳の夏。
 私は確かにこの施設にいたのだ。、こばと寮という母子寮に。もと住んでいたところからいうと五キロくらいしか離れていない街なのに学区も変わり、生活が一変した私は、とにかく大変なのは自分たちだけではないと、ひたすら人間ウォッチイングする事で、自分を慰めていたのかもしれない。
 ひでこの母ちゃんは、まさに無償の愛を子どもにそそぐ、ただただまっすぐなかあちゃんだった

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