10歳から人生が変わった、その8

私の場合 2️⃣
「みっちゃん、、最後の晩餐や」と私と母を高級寿司店に連れて行ってくれた。
 個室で向かい合って無言のまま、寿司を食べた。「こんなことになったけど元気でな、困ったことがあれば店にいつでもきてくれたらええから」
 私は何も言わずに頷いた。「お父ちゃんは口がうまいからあんまり信じんほうがええよ」と母が言う。
「さあ、みっちゃんが食べ終わったらお別れじゃ、早よ食べて」と母が言う。
私は最後のタコが噛み切れずもぐもぐ、「まだ口にある」と
 なかなか立ちあがろうとしなかった。
 全部食べたらお別れ、その言葉が頭の中でぐるぐる。「まだタコが噛めんのじゃ」と粘ったが、待ちれない母が席を立ち、私を引っ張り上げ、行くよとお店を出てしまった。
「みっちゃん、元気でな、おおきゅうなれよ」と父が頭を撫でてくれた。私はまだタコを口に入れ目に涙を溜めて、大きな父の手をじっと見るしかできなかった。
 商店街の人混みに消える父の姿に、もうお父ちゃんは人混みの中の知らない人になるのだと思った。母は清々しい顔をして、「また明日から前に進もうな」と私の肩を叩いた。
 
 昭和四十年代のその頃は、離婚がまだ珍しく、当時担任だった熱血男性教師が、涙を流して「みつえ、だいじょうぶか、頑張れよ」と励ましてくれた。そして何を考えたのか、成績表をとても良くつけてくれたのだ。当時は五段階で、私の成績は苦手な理科や算数が2で、あとはほとんど3、国語が四で、音楽が唯一の五だったのに、なんと、その時は苦手な算数が3であとは4と5ばかりつけてくれていた。今思えばはなむけの気持ちだっただろうが、新しい学校の先生の第一声は「河野さんは、めちゃくちゃ勉強はできるんじゃなあ」だったのだ。困ったスタートになった。 
 新しい学校は同じ市内でも、街中にあり、授業も進んでいて、ちんぷんかんぷん。
 私は勉強は諦めて、もう友達を作る!を目標にして学校生活を楽しむことにした。
 前の席の女の子は牛乳屋の娘で親も忙しくしてあるので放課後しょっちゅう一緒に遊ぶ様になった。道代というのその子のことを、みっちー、私のことをみっちゃんと呼び合い、毎日毎日一緒にいた。学校の帰りにミッチーの家に遊びに行っては牛乳をもらったり、犬と遊んだり、だんだん遅くなれってしまっていた。ある日寮の太田先生が心配して、「みっちゃん、学校からまず帰ってきてから遊びに行かれよ」と注意された。
「なあなあ、お友達連れてきてもいい?」と太田先生に聞くと「ええけど、ここはみんなで暮らしてるところだからみんなのリビングだけだよ」 「わかった」
 次の日さっそく、みっちーを招いてリビングで本を読んだり、卓球をしたりと大はしゃぎ。「みっちゃんち楽しいなあ、いろんなもんがあるし」というみっちーに「お風呂も広いんよ」と自慢した私。「入る入る!」と叫ぶみっちーの声を聞き太田先生が飛んできた。
「みっちゃんここは普通のお家じゃないから外からの人がお風呂とかに入ったらいけんのんよ、ごめんな」残念がってる私たちに、百円ずつくれて、この近くに銭湯があるから行く?と言ってくれ、私たちは飛んで銭湯に向かった。
 まだ四時ごろの銭湯は空いていて、泳いだりもぐったり。
 みっちーが「見てみて」シャンプーのコマーシャルみたい」と長い髪を振る
「一回やってみたかったんよな」とご機嫌なみっちー。「ええなあ、髪長くて、うちは無理ー」私の短い髪が揺れもしないのを見て、ミッチーが笑う、そして私も笑う。ニ人の笑い声が、お風呂屋の高い天井まで響く。

 私はすぐに、新しい学校にも慣れて、夏休みの間に寮のおばちゃんたちとも仲良くなれて、絶好調だった。その頃の私は、親が離婚しても楽しい、お父さんいなくても大丈夫、たいしたことないじゃんと思っていた。いや思おうとしていたのだ。
 それがやっぱり無理だった、転校して、二ヶ月くらいたったころ、体に出たのだ、熱が出て学校を早退きしたのだ。  
 学校から帰ると太田先生が待ち構えていて、
「みっちゃん、大丈夫?先生が布団敷いてあげるから、パジャマに着替えて寝られー」と
 部屋まで上がって来たのだ。
「大丈夫です、布団も敷けるし、着替えて寝てますから」とそっけない態度で私は太田先生を追い出し、とにかく布団を敷いて、パジャマに着替えて布団をかぶって寝ていた。
 するとまた太田先生が上がってきて、飲み物などを置いて、私の枕元に座っていろいろ話しかける。「どしたん?布団に潜って寒いの?」と先生に聞かれ、ううんと首を横に振る。
「みっちゃん、暑いんちゃう?すごい汗かいてるで、ふとんはいだろか」「だめー」私はボロボロの擦り切れている古いパジャマを着ていた。母の勤めが落ち着いたら買ってあげると言いながら、古いものそのままにして前の家から持ってきているのだ。枕も布団もパジャマも誰に見せるものでもないから当分我慢してと母が言ってたのに、みられたくない、ただそれだけの気持ちだった。
 みられては困る、その気持ちが「ダメ」の大声になったのだ。そんなことしてたら母が仕事を早退きして帰ってきた。「先生、ありがとうございました。なんじゃろか知恵熱やろか?」と言いながら部屋に入ってきた。
 太田先生はその姿を見るなり「この子可笑しいねん、暑い言いながら布団に潜って、よう、わからんわ」
「まあまあすんません、時々わからんとこでこだわるんよこの子、ごめんなさい、面倒かけました」
 太田先生が部屋を出ると、私は掛け布団を蹴飛ばして「あー、暑かった、こんなボロボロのパジャマ見られとおなかっただけじゃ」
 と言うと、「あんた、そんなこと気にしてたん?ええんよ、ここではもうカッコつけんでも、いろいろ辛い思いしてきて家族が壊れてる人ばかりじゃから、ありのまま出したらいいんよ」
 と母が言った。
「やっぱり、うちの家族って壊れたん?なんで壊れるん、壊していいん?うちは、おばあちゃんのこともほって出てきたお母ちゃんのこともわからんわ。仲良かったが!お金なくても」
「ごめんなーでもお父ちゃんは都合悪くなったら暴力振るうし、おばあちゃんの介護してもなんの感謝もなかったし、とにかくお金もまったく家に入れてれんかったし、みっちゃんからいい家族に見えとったんかもしれんけど一緒におった時から壊れとったんよ、それだけはわかって。おばあちゃんのことは、みっちゃんのおばあちゃんと言うことは変わりないんじゃからこれからも会いに行っていいよ。「でもおかあちゃんにとってはお父ちゃんと別れたらおばあちゃんは他人じゃから、おとなになったら,みっちゃんもわかると思うよ」と言った。

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