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「好き」と「憧れ」の混合

山口周氏の『仕事選びのアートとサイエンス』の中に仕事を選ぶ際に、「自分がその仕事を好きなのか、それともその仕事に就いている自分に憧れているが故にその仕事を選ぼうとしているのかを混合してはいけない」という箇所がある。

確かにこの指摘は言われればその通りだと合点がいくものの、第三者などに指摘されないままに自己分析などを行うと簡単に陥ってしまう罠のように感じる。

実際に社会に出たことのない学生が自己分析をする際に、「自分の好きなこと、得意なことを活かす仕事が適しています」とアドバイスされる時に、自分が周りよりも得意だから好きなのか、それとも憧れているから好きなのかを見落としてしまいがちになると思う。

自分自身を振り返っても、今ではエンジニアを好きだからやっているけれども、エンジニアを志望してプログラミングを始めた際に、本当に自分がプログラミングが好きで好きで仕方なく結果として仕事になったかと言えば決してそんな事はなかった。


プログラミングがこれぽっちも好きじゃないというわけではないにしても、「エンジニアとして働いている自分」への憧憬の念があったことも否定できない。


特に昨今では、プログラミングが小学校の学習指導要領に組み込まれたし、一部のSNSのインフルエンサー(笑)に触発されてこれからはプログラミングだ!と声高に叫ばれていることで、エンジニアへの就職希望者は多くなっている。

上位のエンジニアがフルリモートで高給を得ていたり、GAFAを嚆矢とした巨大IT企業が目立つものの、そうした人たちは世界のごくごく一部であることは言及されにくい。

実際のエンジニアのほとんどは表には出てこないし、それ故に実際の、リアルのエンジニアがどう言った仕事でどのようなスキルや適性が求められるのかはなかなか情報が出てこない。

声の大きさがそのまま大勢を反映しているとは往々にして限らない。

自分が好きなことを仕事にすることは素晴らしいことではあるが、本当は好きよりも「憧れ」が勝っているかもしれないと客観的に考えるのも大事なことである。


とは言っても、自分が好きなのか憧れなのかはその仕事を経験してみないとわからないというのもまた真実だと思う。


あまり好きでもない仕事であっても、実際に仕事をこなしてみると相対的に周りの人よりも、短時間で質の高い成果が出せる職種があるかもしれない。
その職は自分の「好き」を完全に満足させるものではないかもしれないが、結果としては自分に「やりがい」や「達成感」(個人的にはやりがいや達成感という言葉は敬遠しているが、それを目的とせず、結果として手に入るようなやりがいや達成感は人間には必要とも思っている)を与えてくれて、その人の日常を豊かにしてくれる可能性は高い。

憧れとかやりがい、達成感などは耳障りこそいいが、実際には目に見えないものであってそれがどう言ったものかという定義も人によって千差万別である。いろいろな定義や解釈が可能であるが故に、知恵の働く人間が解釈の仕方によって、そうでない人間の心を掻き立ててしまい、搾取に繋がってしまうのだろう。

かと言って全く憧れもやりがいも達成感もない仕事で働きたいかと言われるとそれはなかなか難しい。

やりがいや達成感をが目的にならないように、それが自分にとっての唯一の報酬にならないように労働者側が気をつけないといけない。
資本主義の世界では資本家はできるだけ、賃金を使わずに多くの労働力を利用したいと考えるものなのである。その為には、理想や憧れ、達成感などの心に訴えかけるものは好都合なのである。そして、得てして、力のある資本家はそうした目に見えない、故に現実のコストはかからないものを操るのが大変上手なのである。

労働者階級が、「好き」と「憧れ」が混合しないように資本家が啓蒙活動することはおそらくないと思う。


資本家が悪人という話ではなく、資本主義の構造的なものなのだと思う。
だからこそ、労働者は自分が何によって、駆り立てられているのかや自分の選択がどこに依拠しているのかを考えないといけない。

ここまで言っておいてではあるが、時には憧れややりがいを「唯一の報酬」と覚悟して選択することも必要かもしれない。
芸能界やお笑い業界はまさにそうした動機が大きな原動力になることは十分にある。しかし、それはあくまでそうした構造を理解してそれを受け入れた上で判断しないといけないと思う。

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