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女の敵は女か?いや違うと「私」は思う
女の敵は女、という意見。を、否定したい。限定的に思春期の女の子というのはとんでもなく意地悪だったりするがそれは成長の過程であり、同世代の男の子も同じであろう、ともかく思春期は大抵の人間は攻撃的になる。
個人的な考えですがこの時期に女性に嫌な思いをさせられた場合、女性も男性も女性に何らかの悪感情を持ってしまう。実は私もそういう思い込みがあった。
その人物、あるいはその集団の女性が最悪だっただけでその後の人生に関わる女性は全く違うのに「やっぱり女はこうだから」と、思い込んでしまう。
そしてその思い込みがそのままの女性にはある特徴があるように私には思える。つまり「私は他の女と違うから」と「私は女の嫌なところ知ってる女だから」である。そして女の話しはつまらない、生産性がない、向上心がない、口ばかり、などと言い始めるのである。
大体の人間は男女関係なく話しも面白くなければ生産性もない。それが当たり前である。それなのに何故か私は女ですけど「面白くて」「能力がある」と自負し、そうではない(結局のところその人にとって面白くなく馬鹿にみえる女性)を茶化しはじめるのである。
不思議なのがそういった女性はある種の女性憎悪があるにも関わらず、虚像の女性像に執着をみせる。隅々まで手入れされた「綺麗な女」やあるいはこだわりはあるがリラックスした雰囲気の「自然体な女」。どこかインターネットやメディア見たようなクッキーの型で抜いたような「女の型」である。
一方、彼女達が憎悪し茶化す女性は「女の型」にはまらない。彼女らは無駄毛を生やしつつ、時代遅れのフリフリの服を着ていたり、よくわかんなぁーいと言いながら怠惰に暮らし、ハゲちらかったおじさんを「彼ピ」と恥ずかしげもなく呼んだり、もっちゃりとした服装でなぜか一人称は「僕」だったりする。バリエーション豊かで好き放題である。
どちらが自由か、自分の人生を生きているか、と考えれば圧倒的に後者であって他者の承認が必要なクッキー型の女性ではない。
女の敵は女ではなく、ほんとうの敵は「私は絶対にしないダサいことをしている女を許せない自分自身」ではないのか?、なぜダサい女を許せなくてイライラするのか?。根本にあるのは「私はこんなに頑張ってるのに!」という感情ではないかと私は思う。
いや、しらんがな。
私的な考えだが人間というのは基本的に暴力的である、彼女達は自ら「女性の型」を生み出し、はみ出した女性を攻撃してもよい対象と認識し暴力性をあらわにするのだと思う。
ダサいことは美しくない(貴方にとってね)が「有害」ではないのだ。
さて、ここまでさも自分の意見を述べてきたような「私」であるがこの意見自体に全く他者の影響がないといえば嘘だ。この世あるどんな見方も必ず他者から影響を受ける、純度100%の自分の意見など存在しない。そう考えてみれば自分自身のなかにある「こうあるべき」はただの思想のツールであり、貴方とも私とも全然関係がない。まあそうは言ってももうどっぷり生きちゃってるんで手放せないんですけどね、厄介なことに。
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