京都-共犯意識

ホモソーシャル【homosocial】

homoは「同じ」の意》同性同士社会的なつながり。[補説] 近年では、マチスモ男性優位主義)を前提とした男性同士連帯感について、否定的に言及されるときに使われることが多い。

心理的安全性、組織健全性目標、利他、好意返報性、倫理。社会的に善とされるこれらの要素に、幸運なことに現在の私は充足している。育ちの良い集団の中で、育ちの良い他者への好意を交換し、育ちの良い相互承認のもとで関係性を構築する。それは決して慢心だけでなく、個々人の不断の努力で成し遂げられていることは間違いないだろう。

だが、時折そこにある種の喪失感を抱く。洗練された流行のReady Madeで溢れた端正なショウケース、あるいは大量の改良と膨大な研究開発で生まれた均整の取れたレトルトに感じるそれのような。つまり、そこにおいて私を"善"たらしめる要素は歓迎される一方で私を"私"たらしめる雑味は受け入れられないという想念である。

もちろん、人間は多面体であり、自分自身もその"善"に適合するのは容易な側の人間であるのは間違いない。だが、多くの人が心の奥底では、自分自身の優れた部分よりも尖った要素を受け容れてもらいたいと願うのも同様に確かだろう。それこそが自分自身の代替不能性だと信じるが故に。

だからこそ僕は京都に、あの闇鍋のように狂奔じみた大学時代に想いを馳せずにはいられない。あの時の僕らは全員どこか欠落していて不完全で、そんな僕らが作り上げるコミュニティも多くの不条理と矛盾、幾分かの毒を孕んでいた。モラリストの視点で言えば、その毒が一部に大きな害を齎していたことを差し置いて、それを賛美するなど以ての外で最悪の"時代錯誤"だろう。だがどうしてもそれを懐かしみ、それこそが連帯と調和だと見做すことを止められない。

何故ならそこには無限の受容があった。優れている事よりも尖っていることが重視され、お互いがお互いを"最強の共犯者"として無邪気な無軌道を謳歌する。ともすればこれは男性主権的な加害者によるホモソーシャルの賛美になりうるだろう。だが、それでも私にとっては輝かしい勲章なのだ。

過去に対しての惜別と、加害の賛美に対しての自戒を込めて。


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