思春期の始まりが自らのアイデンティティを探し始めることならば,青年期の終わりはそれまで培ってきたアイデンティティを手放すことかもしれない。壮年期を目前として,喪失感と哀惜とともにそう実感する。 アイデンティティは自分自身が他者にひとりの独立した人間として受け容れられた成功体験の集積として形成される。我々は思春期から他者との境界を意識しはじめ,そこに線引きをしようと躍起になり,時として迷走し,数多の経験を経て結実する。 だが,その成功体験も,結局はある瞬間のある共同体における
ホモソーシャル【homosocial】 《homoは「同じ」の意》同性同士の社会的なつながり。[補説] 近年では、マチスモ(男性優位主義)を前提とした男性同士の連帯感について、否定的に言及されるときに使われることが多い。 心理的安全性、組織健全性目標、利他、好意返報性、倫理。社会的に善とされるこれらの要素に、幸運なことに現在の私は充足している。育ちの良い集団の中で、育ちの良い他者への好意を交換し、育ちの良い相互承認のもとで関係性を構築する。それは決して慢心だけでなく、個々
ゼノンのパラドックス paradox of Zenon 古代ギリシア,エレアの哲学者ゼノンが唱えた連続性に関するパラドックス。代表的なものに以下の二つがある。 (1) アキレウスとカメ (中略) (2) 飛矢静止論(ゼノンの矢) 飛んでいる矢は各瞬間において一定の位置を占め,その位置で静止している。ゆえに矢は運動することはできない。 連休、都心から離れてふと我に返る。自分の生きている時間軸の歪さ、その根底にある強迫めいた焦燥から。生きる時間の速度は環境に規定される、なんて
ホモ‐ルーデンス 〘名〙 (homo ludens 遊ぶ人の意) 人間観の一つ。遊ぶことに人間の本質的機能を認める立場から人間を規定した言葉。 大学生に許された特権の一つは均質性だろう。あらゆる肩書きから離れ-少なくとも僕らは学歴だとかいう下らないものに自己を委ねることはなかったと信じている-価値観や美意識、あるいは自己選択で培って来たものを介して生身で他者と触れ合ってきた。言い換えれば僕らは持たざる者として、あるいは挑戦者として振る舞うことができたのだ。 だがこの約一
そういえば昨年末は京都で過ごしていたんだった。 日中、懇意にしてもらっている地元の珈琲豆店で顔見知りの店員と喋っていてふと気づいた。昨年のこの時期、院生活の最終盤。狂奔と呼べるような多忙さと焦燥に駆り立てられ、心身ともにこれ以上ないほど疲弊していたのをよく覚えている。掴んだ将来への切符はそのまま喪失への恐怖に転化し、過ぎゆく日付に対する強迫神経症めいた切迫感にいつだって急かされていた。当然、帰省しようなどという心理的・時間的な余裕など全くと言って良いほど存在しなかった。あの頃
"その土地"とそれ以外との境界はどこにあるのだろうか? 後部座席に立て掛けられた機材の脇、車中泊の間コンタクトを外すことのなかったせいで乾いて滲んだ視界が、11月の早朝、薄曇りの隙間から鈍く溢れる光に縁取られた山科盆地の稜線を捉えた際にその解は得られた。 想定外の冷え込みと睡眠不足で鈍く痛む頭を抱えたまま、いつの間にかすっかり馴染んだ車内で揺られながら、玉虫色に光る追憶の被膜、その内側に入り込んだ感覚が確かにあったのだ。 境界面が為す泡沫の内側は鈍く、慣れ親しんだ倦怠で満た