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郡山-ひととせ

そういえば昨年末は京都で過ごしていたんだった。
日中、懇意にしてもらっている地元の珈琲豆店で顔見知りの店員と喋っていてふと気づいた。昨年のこの時期、院生活の最終盤。狂奔と呼べるような多忙さと焦燥に駆り立てられ、心身ともにこれ以上ないほど疲弊していたのをよく覚えている。掴んだ将来への切符はそのまま喪失への恐怖に転化し、過ぎゆく日付に対する強迫神経症めいた切迫感にいつだって急かされていた。当然、帰省しようなどという心理的・時間的な余裕など全くと言って良いほど存在しなかった。あの頃に戻りたいなど、決して思わない筈だった。

それでも人は身勝手だ。過去に、あるいは喪失に対して足を止め花を手向けずにはいられない。現状を完全に肯定してしまったら、過去に残してきたものに対してどんな顔をすれば良いのだろうか?学生時代の潮流と社会人としての潮流、両者の潮目とも言えるこの年の瀬に際して自室でひとり、情けなくも喪失を反芻している。
吉田に溢れた新たな萌芽に目を潰されて自罰と無聊を深めた春、百万遍の夜に我が物顔で愚連隊めかして屯った夏、木屋町の喫茶で焦燥や自己嫌悪から逃れようと頁を捲った秋、あらゆる喫煙所を友人と囲みつつ寒空の下で身を屈めながら煙草に火を付けた冬。そして胸を焼く糖衣の甘さと吐き気。全ては過ぎ去ってしまった。

三条京阪の裏手、仁王門にある207号室にはもう戻れないのだ。
退去当日、伽藍堂になった部屋の中、最後まで壁に張っていたポスターを剥がしたその裏。紫煙に晒されることのなかった真白い跡が唯一の痕跡として写真の消え去ったフォトフレームのように並んでいた光景、それが他ならぬ喪失だった。張り替えられて真白になった壁紙とそこで暮らす住人に想いを馳せる。彼、あるいは彼女が数年後に過去を振り返る際、それが少しでも善いものであることを祈りつつ。
これはただのつまらないエゴだ。

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