水天宮-自己連続性
ホモ‐ルーデンス
〘名〙 (homo ludens 遊ぶ人の意) 人間観の一つ。遊ぶことに人間の本質的機能を認める立場から人間を規定した言葉。
大学生に許された特権の一つは均質性だろう。あらゆる肩書きから離れ-少なくとも僕らは学歴だとかいう下らないものに自己を委ねることはなかったと信じている-価値観や美意識、あるいは自己選択で培って来たものを介して生身で他者と触れ合ってきた。言い換えれば僕らは持たざる者として、あるいは挑戦者として振る舞うことができたのだ。
だがこの約一年間、身辺を取り巻く環境、自分自身に課せられた職能、果たすべき責務、あるいは社会的ペルソナ、その全ては変化した。モラトリアムが許された学生という身分から、否応なく社会というスクリーンの中に自身を投影される瞬間が増えた。
本質的には何も為してはいない人間が、取り繕われた表層だけを以て時に尊ばれ、時に蔑まれる。幼児の飯事なら可愛いものだが、理性と自我を持っているはずの"大人"がこぞって行うのだから酷くグロテスクだ。或いは理性と自我を持った大人、という了解自体がそもそも幻想に過ぎないのかもしれない。そこにあるのはいつだって諦念だ。
そんな醜悪なごっこ遊びの渦中で縋る縁はどこにあるのだろうか?
喫茶店で灰皿にうず高く吸い殻を積み上げながら、封を切ったばかりの煙草が無くなるまで取り留めのない話に興じている瞬間。ギターを小脇に抱えつつ旧友と音楽を共有し、手慰みの即興を戯れに合わせる瞬間。かつて好んだ習慣を巻き戻す度、調弦のずれかけた自分自身にきちんとネジが巻かれるのだ。そこにあるのは調和と連続性に違いなかった。
かつてオランダの哲学者がヒトとサルとの境界は"遊戯(ludus)"にある、とした定義を思い出す。この引用は彼が意図する所とは違っているのだろうが。
そんな詮ない思考を巡らせつつ、日々の雑事に忙殺されつつも半ば意固地になって楽器を続けている。擦り減ったフレットの凹みに指を這わせてみた。