ファンタジア妖精遊能譚第3話



3. インターミッション


<春「竹生島」>


 竹生島で弁財天が龍神を叱りつけていた。
「どこへ行ってたの! プログラムは神が最初なのに!」
「申し訳ございません。ちょっとこの湖を離れておりまして。」龍神は伏目がちに言った。
「順番は守ってもらわないと。いわゆる神男女狂鬼よ!」弁財天はカンカンになっている。
「あなたがいないから出発できなかったじゃないの」

見ると弁財天は手が4本あり、琵琶ではない変わった弦楽器を弾いている。インドの弦楽器ヴィーナだ。しかも孔雀に乗っている。
「弁財天様、そのお手はいつの間に?」龍神は驚いて言った。
「あら、知らなかった? 私は元インドのサラスヴァティーなのよ」
そう言って弁財天はヴィーナでサラスヴァティーのラーガを弾いた。
(このうねうねとした音感どこかなつかしい)と龍神は思い、遠慮がちに言った。
「そんなことおっしゃるんでしたらあたくしも昔の名前を名乗っていいですか。」「知ってるわよ」サラスヴァティーは意地悪そうな含み笑いをした。そして、
「先祖はインドのナーガ。ナーガラージャ。インドでは上半身人間で下半身は蛇。」とぴしゃりと言った。

ずばりと言われた龍神は、しおしおと言った。
「仏教に入ってから龍王と呼ばれていつの間にか風貌が変わりましたけど。ここで出会った時からなんか同郷だとは思ってましたわ。」
「それで君はどこへ行ってたの。」と弁財天は言った。
「やはり上半身人間で下半身蛇のメルジーナさんに会いにヨーロッパまで行ってました。」もう吐くしかない。
「へえ。そんなところに。で、メルジーナとは付き合ってるの?」と弁財天は険しい顔で言った。
「遠距離恋愛です。メルジーナは古くはインドの建築にも刻まれているくらいで、たくさんいたのです。それが長い年月のうちにユーラシアに広まって、人魚や水の精になりました。そしてその意匠はいろんなところにあるんですよ。」
「マーメイドの印だったらカフェチェーン店にもあるわね。」
「最近ではギリシャのホテルの壁になんとたくさんの蛇女のメルジーナが彫刻されていて、それを見たときの驚き。偏在するメルジーナですよ。時空を超えて。」
龍神はどんどん饒舌になっていった。
「ちょっと大丈夫?」
「しかしヨーロッパにはライバルのドラゴンがいます。 」急に龍神は眉を顰めた。
「聖ジョージにやっつけられたと思ったのですが、しぶとくあちこちに出没しています。」
「ドラゴンもメルジーナに気があるの?」
「大有りですよ。」
「メルジーナはどうなの?」
「あの人の気持ちはよくわかりません。」
「ストーカーだけにはならないでね。」と釘を刺し、
「さっき本部長から電話があったのよ。」と弁財天は言った。
「クビですか?」
「わからない。私たちがすっぽかした分同じ三月の脇能で「嵐山」になったのよ。蔵王権現に借りができたじゃない。」
「クビならクビで私またヨーロッパに行きます。
「あら、女神に龍神はつきものなのよ。勝手にやめられたら困るわ。私もインドに帰りたいのを我慢しているのに。」
わたしたちってなんだか漫才コンビの相方みたいなものですかね、と龍神は言いそうになったがやめた。
「一度お聞きしようと思っていたのですがサラスヴァティー様はなぜ日本に来なすったのですか?」
「ちょっと出張しろと言われて、すぐ帰るのかと思ったら、もう何年になるかな。名前も日本名を名乗らされてるし、手も4本なのに2本に見せてるの。千手観音はそのまま千本でやってるっていうのに。」
龍神はかなりの能の曲の掛け持ちをしていた。
弁財天とペアなのは「竹生島」と「江ノ島」くらいだが、そうでなくても天女とか稀に龍女とペアになることが多い。

 龍神は湖や海に住んでいることになっているが、この龍神は実は湖のそばのログハウスに住んでいた。実際の龍の姿は中国や日本の絵画の中にあるようなものだが、能の時は頭に龍の姿の冠を載せるのである。顔は黒髭という恐ろしいようなとぼけたような面だし。メルジーナに振られるのも無理はないか。

龍神は急に悲しくなった。もっと美形だったら...とシクシク泣きながら湖のほとりを走って行った。
「おーい」と誰かが呼んでいる。
湖のそばのベンチに腰掛けているおじいさんがいる。
「わしじゃわしじゃ」
一角仙人だった。また同郷の人がいた。
「どうしたんですか?」と龍神は言った。
旋陀夫人せんだぶにんに逃げられて。」
「酒を勧められて酔って眠っちゃったんでしょう。」
「閉じ込めていた龍神も出てきてやられちゃったよ。」
「色香に迷ったら神通力がなくなるのはわかってたでしょうに。」
しばらく見ぬうちに一角仙人はずいぶん老けたようだ。
「それインドの話ですよね。インドの龍の話ですよね。」
「あんたも龍だから聞くけど、そいつらを知らんか?」
「わたしは今日本の龍です。竜宮に住んでいることになっています。
でもインドの龍も竜宮に帰ったそうじゃないですか。」
「日照りに雨を降らしてなあ。」一角仙人は情なさそうに言った。
「龍神は水の神ですからね。」
「閉じ込めていたのに急に出てきたんじゃ。」
「そのインドは本部長の頭の中のインドです。」
「その本部長ってのは誰だっけ?」
「わたしも会ったことはないのです。」
一角仙人はよろよろしながら言った。
「わしはもう能とはおさらばするつもりじゃ。」
「へえ、でもどうやっておさらばできます?」
「わからんが、とにかく逃げるのじゃ。」一角仙人は急に決然と言った。


 

<夏「石橋しゃっきょう」>

 …一応ここは中国山西省だけど、この文殊菩薩の浄土青涼山では、舞い出すと笙笛琴箜篌の音楽がどこからか流れてくると台本には書いてある。しかし実際は笛と大小の鼓と太鼓なのよ。このちがいってなんなの? 弦楽器全然ないし。逆に打楽器多し。そう、獅子乱声らんじょうの笛の旋律が流れると、時空が揺らいで私は顕現するのよ。ああー、呼ばれてる、呼ばれてる。行くわよー。登場の自由リズムの乱声が終わって、獅子のクルイという舞の旋律は本当に激しいのよ。牡丹の花に囲まれてめちゃ狂ったように舞うの。

獅子はいつも文殊菩薩に乗り物にされて背中が凝っていた。思い切り手足をリズミカルに動かし、楽しいったらなかった。
…立派な艶やかな牡丹の花が咲き乱れているが、獅子にぴったり。これが他の花ではピンとこないだろう。
文殊菩薩はインドではマンジュシュリ。文殊菩薩のおしるしは青い睡蓮なの。青い睡蓮て静寂というか清らかで静かな感じだから、エネルギッシュな獅子には合わないわ。やっぱり牡丹でなくては。でももともとは牡丹て薬草なのよ。牡丹の側で寝たら虫なんかも寄り付かないから体にいいってことなの。

 その様子を寂昭法師は石橋のこちら側で見ていた。
…そもそも石橋を渡ろうとしたら、童子が出てきて、この橋は特別な橋だという。その昔有名な高僧たちも難行苦行捨身の行をしてここで月日を送ってこそ橋を渡られたのに、とわたしを上目遣いに見た。
…私は日本から宋に留学してもう何年にもなるけれど、はて私のことを知らないのではないか? 結構業績あるんだけどな。

寂昭は童子に言った。
「きみきみ、私を寂昭と知ってのアドヴァイスかね。
「知ってますよ。二十六歳で出家して日本の比叡山の如意輪寺で学び、横川で天台と密教を学んだんでしょう。
「知ってるのかい。四十一歳で渡海して、宋の蘇州の僧録司に任じられて真宗から紫衣を賜り、円通大師の号を賜りー」
「はいはい、わかりましたよ。あなたがなぜ出家したかも存じてます。」と童子は言う。
「あらそう。」
「奥さんを離縁してまで一緒になった女性に死なれて、その後亡骸を葬らず、ずっとそばに置いていたそうですね。」
「そんなことまで。」
「はい。とにかく橋は渡らせません。」
意地の悪い童子だ、と寂昭は思った。

…人が渡した橋ではなく自ら生成した橋だと。自立した橋といえようか。橋の下を覗いてみるとなんと滝だ。童子がいうには、この滝波は雲より落ちて数千丈、滝つぼまで霧が深く身の毛もよだつ谷の深さです、とな。
それで渡らなかったのだが、渡ったらどうなっていただろう。足を滑らせてお陀仏? でも渡ってみたかったな。またの機会なんてないし。でも渡らなくても獅子が舞ってるのは見ることができた。あの獅子が先ほどの童子なんだろう。どうせ。ふふん。

 寂昭は楽屋を覗いてみた。
獅子は一舞して一服していた。
「あら、まだいたの?」と獅子は言った。
「やっぱり渡ってみたい。」
「何よ、今更。もう曲は済んじゃったのよ。
「だからもう舞はいいから、渡るだけ。」
「知らない、そんなの。」

寂昭は獅子の気をそらそうと言ってみた。
「君はダンスが好きなようだね。」
「ええ、それがなにか。」
「どんなに踊ってもこんな山中で誰にも見られずに一生踊り続けるのかい。」
「あら、わたしの舞は天上の舞よ。そんなことは超越してますっ。」
「ところでね、これは能の世界でしょ。獅子が出るのはこれだけ?」
「本物の獅子はあたしだけ。『望月もちづき』は人間が獅子舞をするんですよ。」
「獅子以外の動物で舞うのはあるかな?
「『小鍛冶こかぢ』の狐は舞ってほどじゃないわね。『胡蝶』なんて人間の女性も舞う曲ね。『鷺』はたしかにオリジナルの曲で舞ってるわ。それに動物といっていいのか、『猩々』。あれはとぼけた味の曲だけどむつかしそうね。」

寂昭はまた言ってみた。
「君はフラメンコなんて合うんじゃないかな。」
「あら、スペイン、行ってみたいわあ。アルハンブラの庭の獅子にも会ってみたい。待って、今何世紀? アルハンブラ宮殿もフラメンコもまだないんじゃ。」
「大丈夫。今の世界は本部長の頭の中の世界。時も空間も。」
「あたし、この世界から逃げようかしら。」
獅子は唐突にニンマリした。


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