インド夢の中へ7

*お別れ

 ホテルに帰り着いたのは夜中の12時だった。翌日ガンガとショーバナは鉄道でチェンナイに帰るという。私は翌々日遅い飛行機で日本に帰るので1日余裕があった。一緒に行かないかと誘われたが、バンガロールから朝8時に乗って午後2時にチェンナイに着き、帰りは朝7時で午後1時30分着という。慌ただしいので無理だった。

余裕の1日はコモリン岬に行きたいと私は思っていた。インド亜大陸の先端でアラビア海とインド洋とベンガル湾が見渡せるところ、その日没と日の出を見たいものだと思ったが、キングフィッシャー航空に朝6時ごろ乗らないといけなかった。
鉄道でのんびり行くのは時間的に無理だった。いつも予定を決められずたゆたっている。
「あらゆることが可能、しかも何一つ確かなことはない。」
二十歳の頃、この誰か作家のことばを書きつけてよく友達に送りつけていた。

 とやこうするうちにもうお別れだった。次の朝目覚めてもガンガたちはもう出発したあとだろう。「あなたはたくさんのことをわたしに教えてくれた」と私はガンガに言った。「あなたも」とガンガは言って、双方ハグした。

アヌラタの部屋に行くと、「明日は私は午前中はいるから」と優しく言ってくれた。彼女はアンドラプラディシュのヴィサカパトナというところから来ていた。鉄道で10時間かかるという。

同じ南インドでも、彼女はテルグー、ヒンディー、英語ができ、ショーバナはタミル、ヒンディー、英語、ガンガはタミル、マラヤラム、テルグー、ヒンディー、少しグジャラートとカンナダ、英語、それに古典語のサンスクリット。
という具合にインドは多様な言語に溢れているようだった。

タミル語が日本語のルーツという大野晋説が浮かんだが、例を全く思い出せなかった。しかし人相は全く違っても、私はこの親和感のようなものは何かDNAのシンクロのような気がするのだった。
 


旅人の木(オウギバショウ)

 みんないなくなって私はホテルに一人になった。またしてもJK氏が車をよこしてくれた。どこでもお望みのところへと言われ、公立博物館へと運んでもらった。
玄関に扇を広げたような形の大木があった。芭蕉の類かヤシの類か、見たことのない木だった。

この博物館の私の目当ては楽器類だった。是非とも写真を撮りたかったが、写真禁止ということがわかり、スケッチして帰った。その中には見たこともない楽器がたくさんあった。太鼓の類、鼓の類、そしてシヴァ神のフリ鼓、ラッパ類などなど。シタール、ヴィーナの頭は亀だったり、鳥だったり、ワニだったり。横笛を吹く人形。十世紀の神々の彫刻、戦いの女神ドゥルガ、象に乗るインドラとシャチ。
そして行者の像は頭に角。 
最後にやはり一角仙人が待っていたようだ。        


 私は博物館からの帰り道、ホテルまで一直線なのを確かめ、JK氏のよこしてくれた車から降ろしてもらって道路を歩いた。しばらく行くと道の脇に劇場があった。一体何をやっているのだろう? ダンサーたちの写真が出ている。しばらくそれを眺めていると、男性に英語で話しかけられた。シヴァ神に関するダンスらしい。

私は初めの日に見たジョヤンという美しいダンサーのことを思い出した。もし彼女が出ているならもう一度見たいと思った。しかし今日のダンサーの名前はわからない。すると劇場の通用口から誰かが手招きしている。思わずそちらに歩き出すと、それがまさしくその顔はジョヤンであることがわかった。

あの日花束を渡した相手はジョヤンではなかった。
本人に言えなかったことを今言おうと思った。
「あなたのダンスは素晴らしかった。まるでシヴァ神そのもののように。」
すると彼女は蠱惑的な微笑を浮かべ、
「嬉しい言葉です。あなたは遠いところから来たのですね。」と言った。
しかし、彼女の名前はヤミニだと言う。その時私はダンサーの高貴な顔の口元にうっすらと髭らしき影を見た。男性なのか? 
「ほほほ」とヤミニは笑った。女性なのか? ダンサーは観客席に私を招き入れ、自分は楽屋へと消えて行った。ダンスはまだリハーサルをしているようだった。
いつまでもヤミニは舞台に現れなかった。


*帰る日

 最後の日はトリニティ·インの予約をしていなかったので、上下シーツのあるホテルに移りたかった。JK氏に聞くと、トリニティ·インから移動が近いホテルを頼んでくれた。そして移ったホテルで、夕食は中華料理にした。プローンのソイソースというのを頼んだら巨大な伊勢海老のお頭付きだった。私がやや困惑して食べていると、「私は中国人です」とシェフが出てきて、「美味しいですか?」と聞く。「美味しいです」というと、「サービスです」と別に一皿出してくれた。チキンと何かの揚げ物だった。「これは何ですか?」と聞くと「squid」と言われた。イカだった。ワインもこの際飲んでみた。


しかしこの最後の晩餐の豪遊も一泊800ルピーの日々があったればこそ、というのが下地にあり、後に請求書を見ても、私はインドには全てがある、と思ったくらいで、昔なら青くなっていただろう。
朝食はベジタリアンとノンベジタリアンに分かれたバイキングだった。味噌スープを発見した。そばに鰹節とネギが置いてあった。それを食してみると、不思議な醬油味だった。


 帰る日は、チェックアウトの時間を過ぎても部屋にいていいこと、超過分は学会が払ってくれるらしいこと、空港まで車で送ってくれることを聞いた。夜11時の飛行機だった。6時にホテルを出れば十分だった。

午前中JK夫人が近くのマーケットに連れて行ってくれて、民族衣装とクムクム(額につける魔除け)などを買った。
そして彼女はプレゼントをくれた。それは笛を吹くクリシュナの像だった。「あなたはフルーティストだから」と言って。

 そしていよいよホテルを去る時、持ってきていた服がくたびれてきたので、サルワールという民族服を着た。フロントに行くと、「クマールが来ている」と玄関の方から言ってきた。また学会名と私の名前を書いた紙を持ったドライバーがいた。前とは違う人だった。
そして空港に向かって行ったのだが、できたばかりの空港は地図にも出ていないので、来る時もそうだったが、一体東西南北のどちらの方角に向かっていくか知りたかった。ドライバーに聞いたがよくわからなかった。

そこで、今走っている通りはどこか、と時々聞いた。それと道路にある標識を見る。あとで詳しい地図を見てその地名をたどっていけばわかるというものだ。
車が多く、ドライバーはすごいスピードで、盛んにクラクションを鳴らす。
道路の脇は大きな木ばかり。


アルツ·コスパ通り
JCナガール
リッチモンド
サルカル
メントレス
ガンガナガール
アジナリ
エポール

       HCSUK↑
       HYDERABARD

リングロード
トムクールへ
   
ANABTAPUR
          ↑

コレルリ
サガルナガル
 
 夕焼け。だんだん日が暮れてきた。車の窓に黒いシートが貼ってあり、前の窓は上部が少し水色になっている。夢の中のように水色の風景である。


 バンガロールの空港について、運転手に20ルピー渡した。二つの荷物を運ぶポーターがやってきて70ルピー払った。
シンガポール航空に行くと、トランクが28.5kgで、超過料金を払ってくださいと言われた。

そこでその係のところ、エア·インディアのサービス係に行った。それがしばらく何かやっているようだが、一向にできない。私のカードを小さな器械に入れて何枚ものコピーを取る仕組みらしいのだが、何回も「アーッ?」という顔をしてやり直している。

7時過ぎに着いたのに8時になってしまった。私のカードはその器械でぎゅうぎゅうやられて使えなくなるのではという不安がよぎった。
やっとできました、と言ってまたアッという顔になり、どこかへ消えたカードを探している。私がのぞいて、その辺にあったはずだというと、頭を抱えてあちこちひっくり返している。
どうしたっていうのか。このサービス係は。これも夢なのか。
やっとカードを返してもらってシンガポール航空に戻ると、「お待たせしてすみません。あそこはいつもこうなんです。」と言われた。

それから出国手続きをして、荷物検査のところへ行くと、タグがないと言われた。機内持ち込みの荷物にタグをつけるらしい。また出国検査のところに行ってパスポートを預けてシンガポール航空に行ってタグをくれというと、tag がtwoに聞こえたのか、タグの束を取ろうとしたら、ゴムがからまり合い、フロントの男性と引っ張り合いになってしまった。と、突然現れた日本人男性が見かねたのか、どうぞと言って自分のタグをくれた。


出発前にカウンターバーに座ると出て来たのはキングフィッシャービール




 午後11時にバンガロールを飛び立った。窓の外を見ると、遠くの空に壮大な稲妻が走った。そして暗い空にある雲の裏側が時々ボッと明るくなり、神話的な光景を見ているようだった。インドラというヒンズーの神は確か雷だった。インドからのWelcome and Good-byeというサインのようだ。
シンガポールには午前6時半に着いた。実態は4時間乗った。そして8時半出発。それから6時間。行きは追い風。帰りは向かい風。雲の菩薩の出現を見てシンガポールスリング献杯。フィリピン上空を過ぎ、右手に沖縄の形。あと1時間。左手に何か島影。九州大隅半島らしい。夢の中へ出かけていた私はもうすぐ目覚めるようだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?