『A』森達也~オウム真理教の教団内部からの密着取材~

森達也のオウム真理教の内部に密着して描いた映画。特に広報部副部長、Aこと荒木浩氏を追いかけている。はじめはフジテレビのドキュメンタリー枠として放送するつもりで取材を始めたという。麻原彰晃が逮捕され、公判が始まるというタイミング。当時はサリン事件を起こした狂気のカルト集団であるオウム真理教の話題でワイドショーは持ちきりだった。森達也氏は、荒木氏に手紙を書いて取材を申し入れて取材を始めただけだと語る。「取材対象に接触して取材を始めるという当たり前のことを僕はしただけだ」と言う。ではなぜマスコミは、オウムの内部取材をしなかったのか。それは当時すでに狂気のカルト集団というレッテルが出来上がっており、社会の敵とされていた犯罪集団だ。信者である彼らが何を考え、なぜ今も教団内部に留まっているかなどに一般の人たちは興味がなかったのだ。麻原彰晃に洗脳され、マインドコントロールされているおかしな奴らという考え一色に世間は塗り固められていたのである。メディスクラムというような現象が日本ではよく起きる。過熱報道である。本作が問題提起しているのは、そんな一色に塗りつぶされた過熱報道とは別の視点が必要なのではないかということだ。

森達也監督は、『FAKE』という当時ゴーストライター騒動で日本中を騒がせた佐村河内守のその後を追ったドキュメンタリーを撮っている。「全聾の天才作曲家」として持ち上げられていたかと思うと、「ゴーストライターによる詐欺まがいの作曲家」として批判の嵐バッシングを浴びるようになった佐村河内守氏。森達也氏は、この佐村河内守とはどんな人物なのか?肯定も否定もせずに密着しながら、彼の人となり、妻との関係など丹念に日常を追いかけながら描いた。ゴーストライターと言われた新垣隆氏の取材は残念ながら出来なかったが。渦中の人物、佐村河内守とは?「白でも黒でもない」見方があるのではないか。「音楽を作ってみませんか」と少し意地悪な仕掛けも使いながら森達也氏は彼に迫っていく。

この「A」に登場する荒木氏もまた、そのままの姿を描いている。カルト集団に属し、その広報を担当している極悪人でも狂信者でもなく、ただ事件に戸惑い、責任感が強く、真面目な青年としてカメラの前に登場する。そして麻原彰晃が自分に与えた影響を信じている人間だ。森達也氏が始めた密着取材は、途中でフジテレビから放送中止を言い渡され、彼は家庭用ビデオカメラで自ら撮影を続ける。後半で、映画プロデューサー安岡卓治氏も撮影に加わり、業務用のソニーのカメラが使えるようになったという。だから、特定のカメラマンがいるのではなく、森監督自身がカメラを回している。インタビュー中に聞きづらい音があったり、カメラもあちこち振り回して定まらない映像もある。それでもこのドキュメンタリーには、事件の渦中にある人物のそのままの姿を描き出している価値がある。母親が心配して電話をくれたり、ニュース映像を見ながら幹部の信者たちの証言で始めて知る事件の内幕など、内部にカメラがあるからこそ見えてくる信者たちの素顔がある。教団内部から窓の外に写し出された群がるメディアの取材陣。時には荒木氏と取材交渉をするマスコミの記者たちの姿もそのまま撮影されている。ドキュメンタリーは、カメラがどこにあるかによってまったく違う印象、側面が描き出される。純粋な客観報道などあり得ないことを森達也自身がよく知っている。

偶然捉えられた映像として興味深かったのは、警察が街頭で信者の一人に職務質問をして、何も答えずに逃げようとするのを自ら倒れて見せて、「公務執行妨害」で逮捕する場面が写し出されるところだ。「転び公妨」と呼ばれる現行犯逮捕する警察のよくある手法のようだが、「本当にこういうことするんだ」とザワっとした。リアルな記録映像だった。

このドキュメンタリーはどうやって終わらせるのか?と気になって見ていたら、荒木氏が祖母を見舞いに行くシーンで終わらせていた。信者として今後彼がどう生きていくのかわからない。おそらくこの時点で彼自身にもわからなかったことだろう。荒木氏が特別な人間でもなんでもない、私たちと変わらぬ存在であることを映像は描いて終わっている。

森達也氏は「集団化」の怖さをアフタートークで語っていた。おそらく2001年9月11日アメリカ同時多発テロ以降、世界の「集団化」は加速した。動物たちは危険が迫ると「群れ」化し、まとまることで外部の敵から自分たちを守る。同じように人間たちも「集団化」して、敵を作って内部の絆を強め、異物を排除しようとする。同調圧力、集団化の力が強くなると、異物や敵は徹底的に叩かれ、排除される。オウムサリン事件も誰でも被害者になりえたようなテロ事件であり、集団にとっては危機的状況だった。だからこそ、オウム真理教集団へのバッシングは強烈なものになった。森達也が映画で描いた『福田村事件』もまた、関東大震災という危機的状況の中で、恐怖としてデマや流言が飛び交い、朝鮮人虐殺事件が起きた。「集団化」の狂気は恐ろしい。集団の「正義」が絶対化されてしまうからだ。

まだSNSもネット社会も到来していなかったオウム真理教の事件では、メディアが過熱報道した。今はネット社会がさらに言論やバッシングを過熱させる。「白か黒か」、「正義か悪か」、「敵か味方か」。すべては二元論的に単純化され、憎悪は拡散・増殖し、分断は加速する。あらゆる言説、あらゆる映像、あらゆる情報には、なんらかのバイアスが加えられている。メディアリテラシーを鍛えることとは、そういうバイアスを理解したうえで、自分の頭で考えるしかないということだろう。何も考えずに鵜呑みすること、ただただ迎合すること、とくに同じ言説が一色に染まったときは要注意である。危機の前で「集団化」する人間の特性を踏まえたうえで、別の視点から考えてみること。一人一人が冷静に情報を受け取り、考えていくしかないということだろう。

別の機会に劇作家で演出家である鴻上尚史氏が「シンパシー(Sympathy)」と「エンパシー(Empathy)」の話をしていた。「協調性」の時代から「多様性」の時代へ移り変わっている現代。右肩上がりで「協調性」が大事とされ、同情・共感することで一つにまとまり、団結・調和を保ちつつ前へ進んでいた時代から、様々な考え方・価値観が混在する中では、「エンパシー」という「自分とは違う考え方や価値観を持つ他者に自分を投影し、相手が何を考えているのかを考え想像すること」が大事だと語っていた。そういう多様性に対してどこまで寛容になれるかがいま問われている。


1998年製作/135分/日本
配給:安岡フィルム

監督:森達也
製作:安岡卓治
撮影:森達也、安岡卓治
音楽:朴保

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ヒデヨシ(Yasuo Kunisada 国貞泰生)
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