「あひる」(角川文庫)今村夏子の唯一無二なピュアな世界観
今村夏子を読むのは『こちらあみ子』に続いて二冊目だ。『こちらあみ子』も凄いと思ったが、この『あひる』もまた今村夏子独自の唯一無二の世界観が表現されていて素晴らしい。かつて川上弘美にも感じた独自性が、今村夏子にもある。才能豊かな若い作家だと思う。
平易な文体で、身近な家族、姉と弟、おばあちゃん、父と母、家などを書くことが多い作家だが、『あひる』には不気味な社会もまた描かれている。「あひるを飼い始めてから子供たちがうちによく遊びにくるようになった」という書き出しで始まる「わたしの家」の物語だ。父の同僚からもらった「あひる」を家で飼い始めたことで、近所の子供たちが家にやって来てくるようになって、家全体が明るくなる。父と母はなにやら宗教的な信仰があるらしく、家の中はそれ以外の会話も少なく、「わたし」は看護関係の資格を取るために家で引きこもり気味に勉強中。やんちゃだった弟は年上の女性と結婚して、家を出ていった。静かで沈んだ家が「のりたま」という名の「あひる」の存在で大きく変わる。
「子ども食堂」のような子供たちが集まる場の公共性。にぎやかな子供たちの声。父と母の会話も増え、家は活気に満ちる。しかし、「あひる」が病気になって元気がなくなると、別の「あひる」がやってくる。同じ「のりたま」という名目で。1台の黒いワゴンと作業着姿の男たちが「あひる」を小屋に搬入する。それが繰り返される。誰も「あひる」が「のりたま」ではないことを話さない。暗黙の了解。見せかけの嘘が真実であるかのように振る舞われる。それは社会の不気味さでもある。本当のことを誰も口にしないで、取り繕われる社会。やがて、子供たちは家の中で遊ぶようになり、父と母は誰かの誕生日にカレーを用意するが、その誕生会には誰も来ない。どこかの親が「行くな」と言ったのか、非公認な「子ども食堂」は子供不在となり、父も母も落ち込む。そんな時、一人の少年が夜中に「鍵を無くした」とやって来る。失くした鍵は見当たらないが、大量に残っていたカレーを喜んで食べて帰っていく。この少年は、神様からの贈り物のようだ。ちょっと宗教的な寓話性を感じる。「わたし」が「あひる」の死を認めて埋葬し、家は本当の子供たちのたまり場になる。さらにそんな子供たちによって散らかった家の状態を暴力的に否定する弟がある日帰ってくる。家族全員が、弟の暴力的な圧力に屈服する。そんなイヤな雰囲気を変えてくれたのが、弟夫婦に出来た赤ちゃんの存在だ。
ストーリーを書いてもなにも伝わらない。寓話的な不思議なファンタジーである。ちょっと不気味で、ちょっと温かく、ちょっと孤独で絶望的で、ちょっと未来も感じさせる。語り手の「わたし」は、父や母、家や子供たち、「あひる」と微妙な距離感を持った透明な存在だ。窓から見ていると「人がいる!」と子どもたちにギョッとされる。資格も取れず、まだ「誰でもない」存在である「わたし」が、クールに家族や社会を見つめている。
『おばあちゃんの家』と『森の兄妹』という短編2編も、不思議なファンタジーだ。離れにインキョしている血のつながっていないおばあちゃん。みのりが幼い頃は出入りしていたインキョのおばあちゃんの家も、次第に誰も家族が寄りつかなくなる。暗く湿った家の匂いが伝わってくるようだ。そんな世界から切り離されていく孤独なおばあちゃんの存在が哀しい。みのりが竹藪で迷子になったとき、助けに来てくれたおばあちゃんの想い出。次第にボケてきて逆に元気になっていくおばあちゃんは最後に特別な存在になっていく。その「おばあちゃん」の存在が重なって描かれるのが『森の兄妹』。貧乏で母は働きづめで、学校でもいじめられ、誰からも何も与えられない孤独な兄と妹が、おばあちゃんによって救われていく話だ。手に汗をかいて借りたマンガを濡らしてしまうエピソードや、兄と妹が異界のおばあちゃんと接近して逃げる場面、「ぼくちゃん」というおばあちゃんの呼びかけの声などのディティール描写が素晴らしい。
社会から除け者にされ、疎外され、孤独な者たちは誰かに思いを寄せる。それは一方通行の幻想であるかもしれないけれど、そういう存在があるだけで、人は救われる。それが「あひる」であろうと、異界の「おばあちゃん」であろうと、名前も知らない子供であろうと、突然目の前に現れた孔雀であろうと。そんなせつない一方通行の孤独の思いを大切に描いているのが今村夏子という作家だ。