『くらしのアナキズム』松村圭一郎(ミシマ社)「他人に迷惑かけない」を否定

「アナキズム」という過激な言葉が入っているが、決して「国家を解体せよ」というような政治的主張が書かれているわけではない。松村氏は文化人類学的なアプローチから、国家や富の独占、個人や家庭から「もれる」もの、「もれ出すもの」を促し、うまく「すくいとる」技法が「くらしのアナキズム」だと書く。

日本でよく耳にする「他人に迷惑をかけてはいけない」という言葉。エチオピアの人々のふるまいをみていると、その言葉が、いかに「もれ」を否定し、抑圧してきたのかがわかる。人間は他人に迷惑も、喜びも、悲しみも怒りも、いろんなものを与え、受け取って生きている。それをまず肯定することが「もれる」社会への一歩だ。
エチオピアは、政治も経済もたくさんの問題を抱えている。でもその人々の姿には、学ぶべきことがある。ほんのささいな日常的なコミュニケーションのなかの政治と経済があり得る。そう気づかせてくれる。(P192)

「もれる」という言葉は、歴史家の藤原辰史が『絶縁論』のなかで、安藤昌益の「もれる」という概念に注目していたところからだそうだ。松村氏が20年ほど通っていたエチオピアでは、つねに誰かと何かを話している。買い物でもバスに乗っている間でも、一緒に空間を共有している誰かと必ず会話が始まる。それが「ウザい」などと感じてしまい、スマホに夢中になる現代の日本人が失ってしまったコミュニケーションとのギャップ。

西洋ではなんでも二元論で切り分けようとする。情動と認識、主体と客体、人間と動物、生者と死者・・・。だがアフリカでは、目にみえることみえないことが分けられず、超自然的な存在と生きている人間との垣根もない。世界は流動的で、つねに変化し続けている。そこでの「人間」はいつも不完全な存在に過ぎない。でも「不完全だからこそ、同じく不完全な他者との交わりのなかに無限の変化の可能性が生まれる」(P198)」

不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉する。アフリカの人類学者ニャムンジョは、そこにある論理を「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)という言葉でとらえた。

寄り合いや茶飲み話での対立を乗り越える対話の技法。多数決民主主義は、人間が一貫した意見をもつという前提がある。でも人の意見を聞いて「それもありかも」と思ったり、気持ちが揺れ動いたりすることはよくある。そもそも「よくわからない」問題の方が多い。多数決だけで物事を進めることには無理がある。完全なる自己を求めて守るために他者との明確な境界線を引く、西洋の自立的個人のアイデンティティを揺さぶる考え方。不完全さこそがじつは正常な状態だと再確認すること。

「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)は、異なる人びとや空間、場所を架橋し互いに結びつける。また互いに思想を豊かにしあい、想像力を刺激し、あらゆる人びとが善き生活を求め確かなものにするための革新的な方法をもたらす」というニャムンジョの言葉。松村氏は、グローバルに人びとが流動し、あらたなシティズンシップの枠組みが求められる時代にあって、世界が必要とするものとは、「コンヴィヴィアルな対話」であり、それが「国家や市場のただなかにアナキズムのスキマを作り出す起点となる」と書く。

人間が与えられた商品を消費するだけの存在から、「自立的で創造的な交わり」を持ち、「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由」という倫理的価値が生まれる視点こそ、アナキズム的だという。

経済は金儲けや利潤追求ではなく、ぼくらが他者とともに生きるための原理だったという人類学的な研究のモースの「贈与論」から始まり、2020年に亡くなった人類学者デヴィッド・グレーバーの「アナキズム」的アプローチを手がかりに、松村氏は「無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ。(P13)」と説く。

パンデミックによる危機は、「利他」と「利己」は分かちがたいことを想起させてくれる機会になった。「宛先」のある経済。だれのために働き、商品やサービスを提供し、運び、売るのか。またどんな価値観や社会を実現し、だれの生活を支えるためにお金を払うのか。だれもがばらばらな消費者に分解され、産業システムの歯車の一部になった。そこで一人ひとりが「宛先」のある経済を意識することは、国家と市場(しじょう)のただなかに、ある種の共同性をもった市場(いちば)をひらき、「むら」や「公界」にかかわる自立と共生の足場をつくる。それは国家や自治体といった既存の枠組みや境界をこえて、あちこちに出現しながらも重なりあうような、コンヴィヴィアルな市場(いちば)の共同性だ(P217)。無数の市場(いちば)からはじまる「宛先のある経済」が、そこに関わる人たちを固有の価値を持つ「人間」として結びつけ、場や関係を耕すためのスキマを作り出すはずだ・・・というのが松村氏の論旨だ。

網野善彦の『無縁・公界・楽』やイリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』、グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』、スコットの『日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』、鶴見俊輔の『身振りとしての抵抗』、藤原辰史『絶縁論』などを手がかりしながら、日本人が見失ってしまったコミュニケーションにおける「くらし」の相互依存的な関係、市場(いちば)における新たで自由な共同性の可能性を感じていることは理解できる。果たして未来の日本において、AI化、DX化が加速する中で、どこまでそのような身体的関係を維持・再生できるかどうかは、まだ私には分からない。だが、その萌芽を育てていくことは大切なことだと思う。

最後に本書に掲載されていた『暮しの手帖』編集長の花森安治の有名な言葉を引用しておく。

おそらく
一つの内閣を変えるよりも、
一つの家のみそ汁の作り方を
変えることの方が、
ずっとむつかしいにちがいない。
内閣は、三日や一週間なくても、
別にそのために国が亡びることもない。
ところが、暮らしの方は、
そうはゆかない。
たとえ一日でも、
暮らすのをやめるわけには
ゆかないのである。

ぼくらの暮らしを、まもってくれるものは、
だれもいないのです。
ぼくらの暮らしは、けっきょく、
ぼくらがまもるより外にないのです。
そのあたりまえのことに、気がつくのが、
ぼくら、すこしおそかったかもしれませんが、
それでも、気がついてよかったのです。

ぼくらの暮らしを
おびやかすもの
ぼくらの暮らしに、
役立たないものを
それを作ってきた
ぼくらの手で
いま それを
捨てよう

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