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雨と書物



これは、雨に触れたい書物のお話。

私は、古びた家の書棚に住んでいるものです。
隙間風がひゅうと吹き込む家の、縁側に面した座敷に書棚がございます。


私のご主人は月夜のように静かな青年で、お百姓をされています。作物がよく育つという理由から彼は雨がお好きなようで、雨の日は農具の手入れを終えたあと私を読むのが恒例でした。

薄暗い座敷をさーっと雨音が満たすなか、紙でできた私の身体をぱらん、とめくる音が響きます。
その時間は私とご主人だけが遠い世界へ放り出されたような、束の間の永遠を感じさせてくれました。

ご主人がお好きな雨に触れてみたい。
私はなぜだか、雨に特別なものを感じ始めました。



村の盆踊りのあとから、ご主人はよく外へ出られるようになり、私が書棚から出ることはほとんどなくなりました。

ご主人は夏から秋に移ろう頃の寂しさを纏った方でしたが、最近は冬から春になる頃の柔らかさを纏うようになりました。



その日は、朝からしとしとと雨が降っていました。
ご主人はいつもより小綺麗な格好をされ、私を読みながらも縁側の方を気にされていました。

座敷には薄墨色の暗さが漂い、雨音が爽やかに響き渡ります。久しぶりに手に取ってもらえた嬉しさと、ご主人の手の温かさに私はまどろみました。

「一郎さん」

しばらくして、障子の外から鈴を転がすような声がご主人の名を呼びました。ご主人は私を手に持ったまま、慌てて大荷物を抱え縁側から外へ飛び出しました。

ご主人は待っていた女性の白い手を取り、その瞬間私はぬかるみへ滑り落ちました。
そして二人は目を合わせ、清らかな青い空気とともに走り去って行ったのです。
その光景は、もうご主人と会えないことを悟るのに充分なものでした。

ぬかるみから空を見上げると、無数の透明な粒が降り注いでいます。
これが、雨。
私は、雨に触れたことがあるような気がします。

厚く折り重なった雲が風に流され、やがて金色の光が差し込み、透明な粒が輝き始めました。
それは、ラムネ瓶のビー玉のようなきらめき。


そのきらめきの中、ご主人が私を手に取った日を思い出しました。
私は長い間、街の黴臭い書店におりましたが、ご主人が数ある書物の中から私を選び、外の世界へ連れ出してくださったのです。

まだ幼さが残っていたご主人は、書店で私を買うと大事そうに抱きかかえ、バシャバシャと足音を立てながら連れ帰ってくださいました。

あの日も今日のような天気雨で、私とご主人をほんのり湿らしましたが、彼の左頬は陽に照らされていました。

家に着いたあと、ご主人は手拭いで私を丁寧に拭き、座敷で寝そべりながら夢中で私を読み耽っていました。


あぁ、私は雨に触れたかったのではなく、雨の中の想い出と触れたかったのです。

空から降る金色の粒たちは、雨と太陽が作り出したものではなく、私とご主人の想い出が放つものでしょう。

そのきらめきと、私の紙でできた身体はゆっくりと混ざり合っていくようです。







(1200文字)

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