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【創作】一番はじめは一の宮 #シロクマ文芸部


 雪が降る前に辿り着くだろうか。いや、降り始めたとて関係ない。私のこの足がひたすらに前へ進めばよい。長い山道は途方に暮れるほど奥へ続き、天へと伸びる木々たちは歩く私を見守っているかのようだ。


 私はこれから、兄さんに会いにゆくのだ。お国のために戦争に行った兄さんに。小さい骨さえ見つからなかった兄さんに。

 兄さんと私は異母兄妹だった。兄さんのお母様は兄さんが二つになる前に亡くなり、父の後妻にあたる私の母と一緒になった。
 兄さんは冬のような人だった。肌は積もる雪のように白く、氷のように澄んだ目をして、そこには凍てつく夜の星のような鋭い光が宿っていた。

 兄さんは志願して戦争へ行った。十九にならずしてわざわざ志願をしたのだ。「どうして」と私が聞いても、返事をせず笑うだけだった。非国民とは程遠い父と母は「お国のために頑張るんだ」と兄さんに声をかけていた。

 出征する数日前、兄さんは末の妹が使っているお手玉を出してきて「ゆりこ、少し遊ぼうか」と居間に私を呼んだ。そのお手玉は、幼い頃兄さんとよく遊んでいたものだった。こたつに入り、兄さんはかぞえうたを歌い始めた。

一番はじめは一の宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つ出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法様
十で東京招魂社

 幼い頃におばあちゃんが教えてくれたかぞえうた。意味は分からずとも言葉の響きが心地よく、私は兄さんとその歌を歌いながらお手玉で遊び、野を駆けめぐり、トンボを追いかけ、いつまでも夕陽を眺めた。


「もし帰ってこなければ、招魂社へ来てほしい」
 兄さんはいつもの氷のように澄んだ目を私に向けた。私も兄さんの目を見つめた。その中には、まだ兄さんの生命の火が灯っていた。

「東京の招魂社へは行かれないから、この村の招魂社へ行きます。きっと兄さんに会いに行きます」
 私は目を伏せ、こたつの机を眺めながらそう答えた。

「そうか、頼むよ」
 兄さんは笑みを浮かべ、少しばかり諦念が宿った柔らかい目を私に向け、自室へ戻った。それが兄さんと交わした、今生最後の会話だった。

 戦況が悪化し、本土への空襲が増えてきた頃、兄さんの骨のない空っぽの骨壷が届いた。それは、ひどく軽かった。父も母もそれを見て、「立派だった」と言った。あのお手玉は兄さんに棚へ片付けられたあと、もう誰も触っていなかった。

 兄さんのあの鋭い目は、どこに行ってしまったのか。兄さんは出征前から、生きるのを諦めていたのか。私はこの虚しさと、死ぬまで付き合わなければいけないのか。底のない仄暗い恐怖を感じた私は、骨壷を前に涙一滴流せずその場にへたり込んだ。

 骨壷が届き少しばかり季節をめぐったあと、長い長い戦が終わった。そして父が遠い親戚のつてで私の縁談を持ち寄り、次の春には嫁ぐ話となった。

「雪なんて年に一回降るか降らないかの、暖かいところだ」
 父は私が喜ぶと思ったのか、そのようなことを口にした。父にも母にも誰にも分からないだろう。分かるはずもない。私には暖かさなんてこれっぽっちも必要ないのだ。


 かじかんだ手を、息ではぁっと温めながら歩みを進める。雪がちらつき、それは私の手に落ちじわりと体温を奪う。なんてことはない。肌に刺さる凍てつきは、兄さんのあの目そのものなのだ。

 日が暮れた頃、「招魂社」と書かれた小さい社に着いた。屋根には薄く雪が積もっていた。今晩、雪は深くなるだろう。当分ここへは誰も来ないだろうか。
 私はゆっくりと手を合わせ、「兄さん」と声をかける。空を見上げると、細かい雪たちは私に向かって降っている。何故か私は、その雪が兄さんの気配を纏っていると感じた。

 兄さんへのこの気持ちは、私の身体と共にここへ鎮めよう。この感情自体が、咎なのだ。兄さんと結ばれたいなんぞ、そういう小さい繋がりを持ちたいわけではない。ただ、兄さんと過ごしたこの土地を離れ、兄さんと冬の気配を忘れ去り、雪の降らない場所でぬくぬくと歳を重ねるなんてまっぴらごめんなのだ。


 歩き疲れたのか眠気が襲い、社の前に横たわる。あぁ、冷たい、冷たい。きっと私の上に、兄さんの肌のように白い雪が積もってゆく。


 目をゆっくりと閉じ、私は頭の中で兄さんと歌ったかぞえうたを歌う。



 一番はじめは一の宮。






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