故郷 徒然なるまま...
日本における戦国時代に儒学の学問を修めて平和を考えようとした学校があったのです。それが足利学校です。現代の混迷した政治状況と平和を考えていくうえで、為政者のモラルをみていくうえでひとつのヒントを与えてくれるのではないか。
講義は、例えば易学など、10旬が必要としたのです。一旬は10日間です。為政者としての人間的生き方、統治の方法、重要な決断をするときの易学などを学んでいたのです。
さらに、ここでは、易学などの儒学によって、東洋医療を実証的な臨床学を学んでいました。そこでは、望診したうえで、舌診、脈診、腹診を経て病態を決め、薬を処方する察病弁知(さつびょうべんち)ということで、診断する方法での学びをしたのです。
陰と陽のふたつの相反する関係と、陰陽五行説の理論のもとに、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓の五蔵の経路から、人体の相互に関連づけて、全体をひとつのものとして考えていたのです。
足利学校では、このような臨床的な医療を発展させ、啓迪院という学校をつくって、多くの医学僧侶の弟子を育てたのです。また、医療の倫理として、慈仁ということで情け深く、相手を思いやる心を重視したのです。足利学校で育った曲直瀬道三は、日本東洋医学中興の祖といわれるのです。
曲直瀬道三は、明で学んで、朱子医学を日本に導入した田代三喜齋から学びました。曲直瀬道三は、1528年に足利学校で入学しています。かれは、戦いのない世の中を目指した室町時代後期、日本僧侶の医者としても注目するところです。
徳川家康に仕えた天海上人も足利学校で学んでいます。第9代の校長である三要は、豊臣秀次に仕え、徳川家康にも五経の「毛詩」の講義をしています。北条氏の崩壊によって、足利学校の存続の危機がありました。家康は、三要に京都伏見に上方の学校として、円光寺を開山させます。第十校長寒松以降も徳川家康のもとで足利学校の保護整備がされていくのです。
中世後期の足利学校の学習形態
曲直瀬道三
ふるさと足利
足利学校の木陰を通り抜けた涼風を思い出しつつ
歴史の道を尋ね
歩む故郷
「足利学校」
次回は織姫神社の阿夫利神社の予定ですが・・
いつになりますか?
さぁ 足の向くまま気の向くまま・・ ですね。
熊蜂 藤
藤の花はクマバチのように力がなければ蜜を吸うことが出来ない、固いフタに閉ざされています。クマバチにとって藤の花は他のライバルに取られない蜜であり、藤にとってはクマバチだけが自分の花粉を運んでもらえるので、受粉できる確率が高くなります。こういった関係を「相利共生(お互いが利益を得られる関係)」と呼び、彼らは切っても切れない関係にあるのです。
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上川外相「うまずして」発言叩きでマスコミにブーメラン!「自民党失言対策マニュアル」製作者が警鐘 https://msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E5%A4%96%E7%9B%B8-%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%9A%E3%81%97%E3%81%A6-%E7%99%BA%E8%A8%80%E5%8F%A9%E3%81%8D%E3%81%A7%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%AB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%B3-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E5%A4%B1%E8%A8%80%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB-%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E8%80%85%E3%81%8C%E8%AD%A6%E9%90%98/ar-BB1mWz6q?ocid=socialshare&pc=U531&cvid=8e5c4f8c0fc645ad97208a2c975612c0&ei=11…Translate post