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2020/11/1 幽霊いるかいないか論

「幽霊っている派?いない派?」という、よくある話題を見かけたので考えてみる。

まず、物質的な現実世界に「いる」かどうかと、個人がそれぞれ認識している世界に「いる」かどうか、というのは別だと感じる。
人それぞれ見ている世界は違うよね、とはよく言う言葉だが、もっと本質的に、我々は「『物質的な現実世界を共有している』という幻想を含んだ、個々それぞれの認識で構築した世界」に生きている。
机上のリンゴ一つであっても、二人以上の人間が本当に同じものを認識しているかどうか、完全に証明できることってあんまりないんじゃなかろうか。視覚や常識だけでなく、触覚だってなんだって自分は自分に嘘をつくし、正しく知覚を共有していたって、それを受け取る人間の認知が揃っているとは限らない。
そもそも正しい知覚(物質的な現実世界を正確に認識できる)とは、一体どうやってそれを定義するのか…それを不完全ながらかろうじて社会が成立するレベルでは可能にしているのが、言葉や単位のような発明なのかもしれないが、まあとにかく、幽霊のような不確かなものが在り得る隙があるとすれば、そのような「物質世界」と「個人の認識世界」の、あまり認知されていないギャップの中じゃないかと思う。

ごにゃごにゃと冗長に述べたが、結論としては、物質的には「いない」(というイメージがあるのでそれに乗っかるとして)、個人の認識する(本人は「これが物質的現実世界だ」と認識している、実際は他者と完全に共有することは不可能な)世界においては、「存在の余地がある」というのが私の意見だ。
本気で信じる者にとっては神の存在は疑うべくもないし、たとえ葉が風でこすれた音であっても、人のささやき声に聞こえた者にとっては「そこになにかがいた」というのが事実になる。

まあ印象だけ言えばふわっと「いない」派寄りなのだが、たびたび説明しづらい現象には遭ったことがある。
多くはある種の感覚過敏が原因だとは思うが、もし仮に霊的な存在がいたと想像して、それはよくある「死後にスッと抜けた、人格を保持している魂」ではない気がしている。

残留思念、という言葉を私は運タロシリーズで知ったのだが、サイコメトリーを題材にした漫画なんかでは出てくるんじゃないだろうか。強い感情がその場所やそこにあった物に焼き付いて、時間が経った後も何らかの影響を与える…というような概念だ(たぶん)。
強い感情、あるいはそこまで行かなくても、人間の思考の「垢」のようなものが、その場所になんとなく残留して淀んでいる、というようなイメージが浮かぶスポットが時々ある。
もし人間の、肉体に依存しない意識が現実世界に何らかの影響を及ぼすとしたら、生前・死後に関わらず、そんな場所という海馬に塵芥のように吹き溜まっている記憶の寄せ集めなんじゃないかな。と言うか偏に、死後もまともに人格を保持していられるほど、自己の同一性がはっきりしていると思えない。私の存在でちゃんと連続しているのは肉体だけだ。

もしそういった「吹き溜まり」があったとして、それに人格も意思もないんじゃないかと思うが、例えばたまたま「良くない記憶」が集まりやすい場所というのがあったとして、それらがネガティブな意思で統一されて自我を持つことがあったら、怪談のような現象も起こりうる…のかもしれない。

まあ大体は、点が三つあったら人の顔に見えるようなもので、神経が過敏になっているだけだと思います。
シャワー中に視線を感じることもあるかもしれませんが、そんな時は

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背後に彼らがいます。

ゴールドキウイに含まれるビタミンCはレモン8個分とのことです。すごいですね。