君の背中が好きだった

 ふたりで城をつくった公園、帰り道に寄ったコンビニ、何度も砂を蹴ったグラウンド。どうして人は、失わないとその大切さに気付けないのだろう。

 私は今日、この町を出て行く。

 保育園からの幼馴染である中谷航は、小学生からずっと野球に打ち込んできた。クリスマスプレゼントで、野球ファンの伯父からボールとグローブをもらったことがきっかけらしい。航と航のお父さんと私の三人で、グラウンドがある近所の公園に行っては、毎日のようにキャッチボールをしていた夏を覚えている。
 中学生になって、航は野球部に入った。追いかけるように、私は野球部のマネージャーになった。その仕事は思っていたよりも大変で、慣れるまではずっと足が痛かった。湯舟に浸かりながら、危うく溶けそうになる夜が続いていた。
 ときどき、ヘロヘロの頭に「やめたい」という文字が浮かぶことがあった。そういうときは航のことを思い出す。三塁から帰って来たときの笑顔。小雨の中素振りの練習をする背中。航の顎から滴り落ちていた汗のつぶ。……。
 そうして、私は自分の頬を叩く。航の頑張る姿が、私の頑張る糧だったのだ。
 生まれつき背が低く体の線が細い航は、高校生になってもレギュラー入りを果たせなかった。公立の進学校ということもあり、野球部員は少なかった。そのおかげで全員がベンチ入りをしていたのだが、航が試合に出場したのは一度だけ。結果は大敗。強豪校と弱小チームの試合という勝利の女神が微笑みそうな展開だったが、現実が漫画になることはなかった。
 その帰り道、航は上を向いて歩いていた。空を見遣ると、十七時から十八時のグラデ―ジョンが空を彩っている。それがあまりにも綺麗で、思わず航の名前を呼びそうになったが、「わ」と口を開いて、閉じた。
 航が泣いている。つうと頬に線を引くその水が、航の目から零れていることに気付いてしまったのだ。どこか遠くの方で聞こえるカラスの声と、電車と、車以外は静かな夕方だった。

 ちょうど二年前の今頃、桜の蕾を横目に歩きながら、航は言った。
「おれ、退部しようと思ってる」
 私は立ち止まって、航の顔を見る。耐えきれない、とでも言いたげな表情だった。
「才能ってなんだろうな」
 私の反応を待たずに、航は続ける。
「おれには才能がないけど、努力すれば補えるものだと思ってた。甘かった。おれには、努力すれば補えるほどの才能すらなかったんだ」
 航のグローブがボロボロになっていく様を、一番近くで見ていたのは私だ。そう思っていたからこそ、航の弱音を受け止められなかった。
 感情のままに私は叫ぶ。
「その程度なら辞めちゃえば!」
 言い終わると同時に私は走る。耐えきれなくなった航の言葉を聞いて、私まで耐えきれなくなってしまっていた。風が頬を掠める、たったそれだけの刺激で、私の目から大粒の涙が溢れ出た。子どもみたいにわんわん泣きながら家に帰る。振り返っても誰もいない。どうしようもなくひとりぼっちの帰り道だった。

 結局、引退まで航は野球を続けた。辞めちゃえば、と言ってしまった夜、私はそのことを酷く後悔していた。明日顔を見たら絶対謝ろう、と決めていたのに、何事もなかったかのように笑う航を見て、何故か、何も言えなくなってしまった。その後も折を見て謝ろうと思っていたけれど、航と目が合うとうまく話せなくなる。そこから「耐えきれない」という感情は汲み取れないのに、あの放課後がフラッシュバックする。航を前に、言葉が詰まることは初めてだった。
 とうとう謝ることができないまま高校を卒業し、私は大学進学のためこの街を出る。毎日のように顔を合わせていた航は地元に残るらしい。あの日々は、もう再生できないのだ。
 あの日から、私たちには壁ができた。本音のやり取りを遮る壁だ。それを壊す勇気が出ないまま、私たちは壁を挟んで互いの道へ進む、つもりだった。
 汗まみれの手でスマホをタップする。電話帳を開き、「な」の行までスクロールすると、航へ繋がる魔法の番号が現れた。
 そのボタンを押す前に、私は目を瞑る。深く息を吸って、吐く。机の上には、荷造りのとき出てきたあの写真がある。あの日の写真だ。
 写真の中の航と目が合って、どきりと胸が脈打つ。もう一度、航と話したい。声が聴きたい。口を大きく開けて笑ってほしい。
 一思いに通話ボタンを押した。コール音が響き、もうその音以外聞こえなくなる。
 何コール目だろうか。突然、ぷつりとそれが途切れた。数秒間の空白ののち、あの声が私の耳を貫いた。
「……もしもし?」
「もっ、もしもし」
 私の声は、自分でも笑ってしまうほど震えていた。受話器から微かに笑い声が漏れたのを、私は聞き逃さなかった。

 ふたりで城をつくった公園、帰り道に寄ったコンビニ、何度も砂を蹴ったグラウンド。どうして人は、失わないとその大切さに気付けないのだろう?

 降りはじめのぽつぽつとした雨のように声を出す。傘を差し出されるような相槌が聞こえて、私の気持ちが、確かに雨になっていく。

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