瞬きの呼吸 #3
燈子が大阪を発ってから、一ヶ月と少し経つ。卒業式の翌々日、燈子はフェリーに乗って故郷へ帰っていった。夏休みか春休みにでも、またこっちに戻って来れたらいいな、と言った。それらのことを、梓は後から知った。だから梓のなかで、卒業後の燈子についてはあくまでも「らしい」と付く。
夏休みか春休み、つまり、GWや冬休みは会えないということだ。夏休みまであと四ヶ月。そもそもそれは確約された未来ではなく、再会がいつになるのかは、きっと燈子も分かっていないだろう。卒業という通過儀礼を終え、燈子は新たな道へ、梓は燈子以外の灯を見つける。一般的で立派な展開だ。いっそ、もう会えないと思っていた方がいいのかもしれない。――待っているだけなら。
朝の便にもかかわらず、フェリーは多くの人で賑わっていた。GWだからなのだろう。アイスクリームの自販機の前を、幼稚園か小学生低学年ほどの子どもが走り回っている。近くには売店があり、ゴシック体でMENUと書かれた下に、カレーやラーメン、かつ丼などの写真が八枚貼られている。弁当も売っているらしい。朝食にしては豪華すぎるような気がするが、そこへ並ぶ人は一人や二人ではなかった。海の上でもいつものように生活を続ける人々を横目に、梓は甲板へ向かった。
外へ出ると、海はすぐにやってきた。陸も見えるが、海に囲まれている。想像以上の眩しさに、思わず目を細める。潮風がするりと鼻から入り、体内を駆け巡る。自然に暴力をふるわれている、と思う。しかし、すぐに気持ちよくなるのだ。
甲板から見る朝の海のきらめきを、燈子ならどう切り取るのだろう。波同士が喋り、ぶつかり、混ざり合うたび、梓は息を止めてシャッターを切った。
四国行きのフェリーは、燈子に会いに行こうと思い立った日に予約した。燈子が点した灯が消えることはなかった。いつも同じように光り続けていて、燈子のことを忘れるときは自分が死ぬときだ、と梓は気付いていた。記憶のなかで笑う燈子をまなうらに浮かべながら、深呼吸をする。肺いっぱいに海が広がる。ああ、写真を撮りたい。今の自分の肺の写真を。
ピコン、と携帯が鳴る。潮風でべたついた指で画面をなぞる。燈子から「え!?」というメッセージが届いていた。
香川へ行くことを燈子に知らせたのは、早朝のことだった。このあと港へ向かい香川行きのフェリーに乗ることと、夜が明けていく空の写真を送った。瞬く間に色が変わっていく空の呼吸を、人間のようだと思った空を、燈子に見せたかったのだ。
「ひとりで!? なんで!?!?」と、燈子から続けてメッセージが送られてきた。皮膚を陽光に撫でられながら、梓は燈子と会話する。
「ひとりです。先輩に会いに行って、先輩の写真を見たかったんです」
「急すぎてびっくりしたけど、嬉しい。先輩冥利に尽きてる」
「驚かせてすみません。でもどうしても先輩に会いたくて」
「もうこんなんプロポーズやん?」
「そうです。私、ほんまに先輩の写真が好きです」
「ほんまに嬉しい。そういえば、さっきの空の写真、なんか、」
船内にWi-Fiがあり、陸が近いとはいえ、通信はときどき不安定になる。燈子の次の言葉を待ちながら、梓は顔を上げた。香川の先端が見え、胸が高鳴る。まっすぐに突き進む船という巨大な魚。着いたらそれも撮ってみよう。どの角度が一番かっこいいんかな。みるみるうちに、視界を占める陸の割合が増えていく。
梓の手のなかで、携帯が光る。待ち受け画面には、燈子からの新着メッセージが表示されている。
「生きてるみたいやね」
波同士のたわむれを見つめている梓は、まだその返事を知らない。ただ、頭の中で、燈子が撮る海の透明さについて考えている。
(終)