また明日と笑ってください
明日、私は、退部届を出す。
去年の春、高校に入学して間もない頃、家が隣の幼馴染である笹谷太陽と一緒に歩いていた帰り道で、何の脈略もなく彼は言った。
「おれ、バスケ部に入ろうかと思うんだけど」
ひまりは? と訊ねられたとき、『部活動』という三文字が頭にポップ体で浮かんだ。中学一年生の授業開始日の放課後のことがフラッシュバックする。あの日も、太陽から言われてようやくその存在を思い出したのだ。
まだ何も決めていないことをそのまま口に出せば、太陽は想定内だと言いたげな表情で頷いた。
「なら、一緒にバスケ部に入ろうぜ」
「いや、でも、私、バスケできない……」
いや、が嫌ではないということは、太陽には伝わっただろう。私はおそろしいほどの運動音痴だ。球技に限らず、陸上も、水泳も、なわとびでさえ致命的である。上手くなりたいという気持ちはあるが、意欲はない。公園で遊ぶより、家で漫画を読んでいたい子どもなのだ。
「じゃあ見学だけ! な?」
太陽は引き下がらず、その勢いに負けた。よくあるパターンだった。
了承してからもなお不安がる私の背中を、太陽が軽く叩く。
「大丈夫だって。おれがいるじゃん」
やさしい笑顔だったから、それをよく覚えている。
見学、とは名ばかりで、太陽はその日から練習に参加していた。マネージャー希望だと太陽に紹介された私は、あれよあれよという間にコートに同化していく彼を、体育館の壁にもたれて眺めていた。目を輝かせながらボールを追う姿を見て、私はひとつ、決心をする。
ひまり、という名前は向日葵からとったんだよ、と、小学二年生のとき両親から聞いたことがある。私はこの名前が好きだし、向日葵も好きだ。向日葵は太陽の方を向く、太陽の花なのだ。
帰り道、太陽が「おれはバスケ部に入る」と切り出した。それに頷いてから、私も言った。
「私はマネージャーになる」
その答えを聞いて、太陽は太陽のように笑う。
「よっしゃ!」
太陽に向かって、私も笑う。まだ春なのに、夏みたいだった。太陽は私を向日葵にしてくれるのだ。
それからの日々はめまぐるしく過ぎた。洗濯と記録とスポーツドリンク作りに追われる毎日で、慣れないうちは週末のたび体が悲鳴を上げていた。一年から三年まで、部員は十七人。多いようなそうでもないような数だが、マネージャーが自分を含め三人しかいないことを思えばかなり多い。中学時代の吹奏楽部三十人超のことを考えれば、少ない方だけれど。
もうやめたい、と思うことはこれまでに何度もあった。何度も弱音を吐いて、そのたびに太陽に励まされて。よく分からない変顔で笑わせてくれたことを、私は全部覚えている。どんなに嫌になっても、もう少し頑張ってみようと、そう思えたのは彼のおかげだった。太陽は私の原動力だったのだ。
部活後の薄暗い帰り道、コンビニに寄って買った棒アイスが家で食べるより美味しかったこと。誰かのために編むミサンガは、自分のためだけに編んだものよりかわいいということ。「また明日」という別れの挨拶が嬉しいということ。太陽が教えてくれた。
そんな彼に、彼女ができた。人生初告白を受けた、ということをいつもの帰り道で聞いた。相手は吹奏楽部の女の子。ホルンを担当しているらしい。
「中学のときのひまりと同じじゃん! って思って」
おそらく、何気なく言ったのであろう太陽の言葉が胸に刺さって、なかなか抜けなくて、痛かった。じゅわりと滲む血を隠して会話するのは存外簡単で、飛んでくる無自覚の矢を受け入れ続けた。
ひとりで帰る日が増えた。太陽から言われる前に、私から背を押した。
つらくても、太陽は笑う。
太陽が笑っていても、つらい。
突き放される方がましだと思う夜。
今まで通りでいたいと願う朝。
その狭間で揺さぶられる日々が続いた。結局、私は何も変われなかった。葛藤からの解放よりも「また明日」が欲しかったのだ。
季節が二回変わって、太陽はめずらしく暗い顔で「別れた」とだけ言った。このところけんかばっかりしていた、ということも、はじめて聞いた。
驚きすぎて、相槌の一つも打てない私に向かって、太陽は笑う。声をあげて。
「ひまり、目、まんまるじゃん」
「だって、……」
「いいんだよ。おれにはひまりがいるし」
その言葉で、今度は目が飛び出そうになってしまった。
どきまぎする心臓を抑えながら、日常会話のように答える。
「よく普通にそういうこと言えるよね」
言ってから、誤魔化すようにふきだした。帰路はすっかり陽が落ちていて、点々と立っている電柱の灯りが私たちの笑みを照らす。太陽は夜だって眩しい。
あのとき、本当に言いたかったことは。
三週間前、太陽は不慮の事故で亡くなった。たまたま体育倉庫に立てかけていた梯子が、片付けをしていた太陽の方へ、たまたま崩れたのだ。
たまたまだ、と言われても、不慮の事故だ、と言われても、私は原因の粗探しをやめなかった。たまたまで、私の世界から太陽が消えるなんて、絶対に、絶対にありえないのだから。
明け方まで眠れない日が続いた。そんなとき、たまたま開けた引き出しの中から、小さな木の棒を見つけた。棒アイスだ。
手に取ってその裏を見れば、『あたり』という文字がマーカーで書かれている。紛れもなく、太陽の字だった。
私は気付く。太陽はもういない。誰を何を責めたって、太陽は二度と戻らない。残された私がするべきことは、太陽に、祈ることだ。
それが分かってから、私は深夜三時に机に向かい、退部届を書いた。間違えてもいいようにシャーペンで書いたが、こういうときに限って一文字も間違わなかった。一拍も置かずに私はそれを書き上げた。
そして、自分よりつめたい布団に入る。おそらく、きっと、これからも私は太陽を探してしまうのだろう。気付いても、覚えているから。
太陽が輝いているから、という理由で入部して、太陽以外の世界の眩しさを知ることができたのに、何度もやめたいなんて言って困らせて、今回もこうしてやめることになって、迷惑かけてごめんね。クラスも違うし、家が隣だったっていう接点しかなくなっちゃうけど、また明日と笑ってください。
ゆっくりと意識が遠のいてゆく。
明日、私は、退部届を出す。