苗字が変わるかもしれない

 私の苗字が変わるかもしれない。

 それは好きな人からの将来の約束でもなんでもなく、なんの面白みもない、ただの家庭の事情だ。力ない声で告げられたそれは、私の耳の奥で蠢いていて、実は今もあまりよく分かっていない。分かるのは、苗字が変わるかもしれない、ということだけだ。
 所詮苗字なんて記号と記号の区別だし、それは悲しくない。複雑だけど、どちらかというと嬉しいくらいだ。母の旧姓はありふれた苗字だし。
 苗字が変わったら何をしよう。まず真っ先に、私を苗字で呼ぶサークルの友達や先輩に、下の名前で呼んでください、と頼んでみよう。ラインの名前も変えよう。
 最近私のことを苗字で呼ぶようになった好きな人にも、伝えてみようか。苗字が変わるかもしれないんだ、って。そのことを考えたら、変に、わくわくする。

 ところで、私はパパ活に興味がある。時間と精神をすり減らしながら働いたバイト代を親に管理されている私にとって、何にも縛られない自由なお金が、それも大金が、自分のものになるというのは夢のまた夢のことなのだ。ちょっと年上の人と一緒にご飯を食べればいいだけでしょう? 私でもできる。
 パパ活が危ない、といった話はよく耳にする。検索をかければ違法だと言っている人もいる。少なくとも推奨される行為ではないのだろう。それは分かっている。けれど、お金が欲しい。夢や希望は思いつかないけれど、欲しいものならたくさん言える。化粧品。漫画。服。小説。マニキュア。CD。自由。
 そんな勇気ないでしょう、という声が頭に響いた。あの人の声だ。それを打ち消すように[パパ活 安全]と検索バーに打ち込む。この世界に安全を保障するものがあるのかは分からないけれど、縋りつくように電子の海に漕ぎ出した。

 苗字が変わるかもしれない、と伝えて、好きな人はどういう反応を示すのだろうか。
 困惑?
 苦笑?
 真顔?
 今までのことを振り返ってみる。あの人は優しいから、困惑して、形だけでも手を差し伸べてくれるかもしれない。大丈夫? なんて声をかけられた日には、きっと昇天してしまうだろう。
 それは杞憂だ。あの人のことだから「そうなんだ」で終わるに違いない。分かっている。苗字で呼ばれた日から分かっているのだ。それは。だから、と後に続く私を妄想する。妄想の中でも私は落ち込んでいて、いやというほど現実味があって、悲しい。

 パパ活の話は、そりゃあ、他人に隠すものだろう。家族にはもちろん、親友にだって話さない方がいい。話したくもない。
 けれど、好きな人にだけは話したい自分がいる。
 止めてくれるのだろうか。止められたいのだろうか。
 お金は欲しいけれど、本当に欲しいものはお金では買えない。
 どうせ変わるのなら、本当の意味で君の苗字になりたい。
 でもそういうのは、お金では買えない。

 久しぶりに開かれた部会で、私は六人の友人に「いきなりだけど」と口を開いた。
 きょとんとした顔で私を見つめる友人たちの目を見て、私は何も言えなくなってしまった。昨晩、睡眠時間を削ってまで行ったシミュレーションが水の泡になった。ばかみたいだ。
 簡単な言葉だ。「苗字が変わって××と被るから、ややこしいから下の名前で呼んでほしい」と。理由は言えなくても、せめて「下の名前で呼んでほしい」とだけ言えばそれでいいのに。
 口は動かなかった。カオナシのように立ち尽くす私を救うように、部室のドアが開く。
 好きな人だった。
「なにしてんの?」
 三ヶ月ぶりの好きな人は、私の記憶より少し髪が伸びていて、相変わらず姿勢が綺麗だ。
 金縛りが解けたように、私はやっと声が出せるようになっていた。
「下の名前で呼んでほしい……」
 噴水のように口から溢れた言葉は、他の誰でもない、好きな人へ向けたものだった。
 ほんの一ヶ月前まで呼ばれていた、私の、私だけの名前で、もう一度呼んでほしい。苗字なんて、名前なんて区別だ。それはよく分かっているつもりだけれど、苗字で呼ばれるたびに悲しくなる。
 好きな人の顔がぐにゃりと歪む。悩むようなその態度からは、明確な拒絶が示されていた。

 夢から覚めると、そこは自室のベッドで、汗で体に張り付いたパジャマ代わりのTシャツはぐしょぐしょに濡れていて、気持ち悪かった。
 あれが夢だと気付いたのは、台所で水を飲んでいたときだ。
 廊下にぼんやりと漏れるリビングの灯りが視界に入った。導かれるようにそちらへ足を忍ばせる。ぺた、ぺた、とフローリングと裸足の感触が気持ちいい。そのうち、母と父の声が言葉として耳に入ってきた。

 
 私の苗字は変わらないらしい。少なくとも、私が大学を卒業するまでは。安堵と残念が入り混じる。少しだけ、何かが変わるような気がしていた。
 下の名前で呼んでほしい、なんてもう言えない。
 お金なんていらない。
 君の苗字が欲しかった。

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