瞬きの呼吸 #1
「桜って三月に咲くもんやっけ」
「今年がおかしいんよ」
テレビ画面には桜の蕾が映っていた。開花時期を予想するキャスターが、正しいとされる発音でそれらを読み上げていく。大阪は三月二十一日。四回生が大学を卒業するのは、その翌日のことだ。
桜の開花は、早ければ三月中旬、遅ければ四月上旬である。平年より六日早いだけだということを、梓はスマホで検索をかけて知った。まるで異常気象なのだと言わんばかりの母親の口調に、少し辟易する。灰色のため息が漏れてしまいそうになって、慌てて口を噤んだ。地球温暖化が進んでしまうかもしれないから。
梓の人生において「母親」という存在は、学校の先生や教科書、ニュース番組に出演している専門家、カラスが黒いという事実よりも正しいものだった。よそ見はするけれど、敷かれたレールの上を歩いている。感情のある石炭車。石炭を運ぶためだけに、感情なんていらないのに。
矢野燈子とは、フィルムカメラサークルで出会った。大規模な写真サークルとは違い、部員はたったの六人(うち二人は幽霊部員)で、新入生は梓ひとりだけだった。部会とは名ばかりで、毎週木曜日の昼休みに薄暗い部室で集まってはおもちゃのようなフィルムカメラや光に満ちた(もしくは光の抜けた)写真を見せ合う。部長は写真撮影よりも古いカメラを収集することに熱心で、副部長は夕方の川面の写真ばかり撮っていた。梓はこれといって特別なテーマを持っていなかったが、人の動きを切り取ったような写真が好きだった。瞬きみたいやね、と燈子は言った。そのとき梓は、まだ見ていない燈子の写真を好きだと思った。
夜の街を撮影したのだとは信じられないほど、燈子の写真には光が無かった。信号機の赤も、変な名前の看板も、ビルも、月も、彼女の世界では無色だった。透明ではない「無色」という色の存在を、燈子は写真で教えてくれたのだ。
「先輩が卒業するん、寂しいです。もう一年おってください」
「それは嬉しいなあ。やけど、来年も同じこと言うやろ」
「言います。私と一緒に卒業してください」
「そんなんもうプロポーズやん!」
形式上はサークルを引退してからも、四回生はときどき部室へ顔を見せた。部室棟の一階の自販機で買ったのであろう缶コーヒーを机の上に置き、燈子は梓の肩を叩いて励ます。つうんと鉄のにおいが漂う。
「卒業なんて儀式やし。永遠の別れとちゃうよ。また遊びに来るから」
「でも先輩、地元に帰るんですよね。永遠ちゃうけど、永遠みたいなもんですよ。少なくとも、卒業式翌日の私にとったら永遠です」
燈子の出身は、香川の田園地帯だ。船に乗るにしろ、橋を渡るにしろ、ともかく海を超えなければならない。梓のまっすぐな線路が、四国へ伸びていくとは思えなかった。よそ見はできても、寄り道はできない。行き先を決められた石炭車は、自分の力で脱線できないのだ。梓は俯いて、燈子の靴の先を見る。少し汚れていて、それが羨ましいと思った。
「ほんまは卒業したくないけどな。梓ちゃんの写真も見足りんし」
燈子はインスタグラムを見ない。アカウントを作ったことはあるが、もうパスワードを忘れてしまったのだと言う。梓は写真を投稿しているが、あまり精力的な方ではない。写真投稿系のSNSは、当たり前かもしれないが、瞬間という瞬間が溢れている。呼吸のように。生活は映像であるという前提を忘れてしまうほど、止まった世界に慣れてしまう。それが普通になると、シャッターを切りたいと思う瞬間を喪失してしまうような気がするのだ。だから、投稿するのは一ヶ月に一、二回と決めている。
「私やってそうです。先輩の写真、これから先もずっと見たい」
「梓ちゃんがそう言ってくれるん、すごい嬉しい。先輩冥利に尽きるわ」
これ言ってみたかったんよ、と燈子が笑う。いつの間にか飲み干していた缶コーヒーの蓋を取り、飲み口のなかに落とす。今ここにカメラがあれば、梓はそれを切り取っただろう。しかし、今日はたまたま持ってきていなかった。代わりに、瞬きをして焼き付ける。そして、燈子が口を開き、梓の写真の魅力を語り始める。その唇が動くたび、梓の目はシャッターを切った。
(続く)