いつの日か思い出さなくなる日々のこと

 幼稚園へ通っていた頃、友達がいなかった。おそろしく人見知りで、内向的で、受け身で、足が遅かった。将来の夢を聞かれて「トラックになりたい」と答えていた。トラックになって、一体どうするつもりだったのだろう。遠くへ行けると思っていたのかもしれない。
 あの頃の主な記憶といえば五つ。先生に言われて自分から「遊びに入れて」と声を掛けてみたら「遊んでないよ」と返されて、アワアワしているうちに「春ちゃんがいないところで遊ぼ!」と走り去られてしまったこと。雨の日の放課後に、ほとんど話したことのない子に指でハートを作る方法を教えてもらったこと。鬼ごっこに入れてもらえたかと思えばじゃんけんは仕組まれていて、休み時間中ずっと鬼役をしていたこと。奇跡的にタッチできても「春ちゃんは三回タッチしなきゃだめ」という謎ルールを課されて、ずっとみんなを追いかけていた。大抵途中で飽きて別の遊びに変わっているのだが、「春ちゃんは鬼なんだから鬼ごっこを続けなきゃ」と言われていた。人の言葉には従うのが当たり前だと思っていた。あとは男の子に髪を引っ張られたり太腿をつねられたりしていたこと。不登園になって毎日公園でお父さんと遊んでいたこと。
 幼稚園の同級生のほとんどは小中高で再会した。みんな普通の人になっていた。私とのことを忘れているというよりも、私のことを忘れているのだろう。太腿の男の子は中学の入学式のあと「久しぶり」と話しかけてきて、紆余曲折を経てなんだかんだ話すようになっていた。今はドルオタになっているらしい(中学の同級生から聞いた)。
 不登園のことが響いたのは小学校に上がってからだった。同じ幼稚園だった子たちが「なんで来てなかったんだろうね」「〇〇に色々されてたからでしょ」と言っているのを聞いて、なんとなく肩身が狭かった。小学校も友達ができないまま過ごすのだろうなと思っていた。(まるで映画のようだが)そんなとき「友達になろうよ」と言ってくれた子がいた。いいの!? と思った。
 友達は他にもできたが、その子は特別だった。幼少中と幼稚で陳腐な人間関係の悩みがいくつもあったけれど、その子との間には一度もなかったからだ。
 彼女をLちゃんとする。小学校五年の頃、私はLちゃんに誘われて今は亡きYahoo!ブログを開設した。幼稚園に通わなくなったくらいから親のパソコンでゲームをしていた。はじめはMacのゲームソフトで家の間取りをシミュレーションしたり、遊園地を作ったり、カラフルなツチノコのペットショップが舞台だったり、プーさんとケーキを作っていた。そのあとはインターネットに繋いでハンバーガーを作るリズムゲームやfreesiaというフリーゲームにハマり、最終的には韓国ゲームのウィニハウス(確かそんな名前だった)のシリーズや着せ替えゲーム大百科、ゲームもりぃもりぃというような名前のまとめサイトのゲームを楽しんでいた。Lちゃんも韓国ゲームを知っていて、それがなんだか嬉しかったことを覚えている。
 ブログではたくさんの友達ができた。顔も本名も知らないし、学年もばらばらだったけれど、話していてすごく楽しかった。その繋がりは私にとって支えだった。当時は簡単wikiというブログ記事のデザインが流行っていて、背景画像を作るために画像加工のフリーソフトをダウンロードし、HTMLを覚えた。「絡み部屋」という記事を作り、コメント欄をチャットで埋め、コメントが100に到達したら「絡み部屋*二代目」を作り、またそこで会話した。仲が良くなれば「玄関」の記事で「すぺさん(Special thanks)」に載せ合った。私の視力が落ちたのは必然だった。
 アメーバピグと占ツク、Yahoo!きっずの検定もLちゃんと始めた。嵐、ボカロ、黒バス、ラノベはどれもLちゃんの影響だった。Lちゃんは私に何かを薦めるとき「春も好きだと思う」と真面目な顔で言ったし、実際その通りだった。クラスメイトの大きい家で十数人で遊ぼうと誘われて、正直面倒だなと思っていたとき、Lちゃんに「別に行きたくない。二人で遊ばない?」と言われて、同じ感覚が嬉しかったこともある。Lちゃんは私の人生ではじめてできた友達で、ずっと友達でいたいと思っていた。中学が離れて、会う機会が減っても連絡は取っていた。高校で再開して同じ部活に入り、卒業後も大学が近かったからときどき会っていた。けれどリモート授業が始まってからは姿を見ていないし、LちゃんはLINEのアカウントを変え、連絡手段はもう持っていない。
 Lちゃんに限らず、小中高の友達で今も交流がある人は殆どいない。ずっと友達でいたいと思っていても、会わなくなると会えなくなるのだ。高三のとき、ずっと「パフェ食べに行きたいね」と話していた友達も、「大学生になっても一緒にコナン観に行こう」と言っていた友達も、大学に入ってから連絡を取っていない。二、三ヶ月に一度遊んでいた小中の友達が夏以降音信不通になっているのは心配だが、彼女は社会人だから、なんとなく連絡しづらくてそのままだ。
 私はゼミの自称愛嬌担当根暗ド陰キャだ(と言われている)から、大学の友達も、来年の四月になれば自動的に私のことを忘れて新しい生活を送ると思ってひとりで虚しくなってみたりする。根暗ド陰キャの夜の過ごし方だ。普通になりたい。普通ってなんだろう。卒制を書くようになってから「普通」が分からなくなったけれど、普通の大学四回生(女)になりたい。

 将来のためのことは未だに何もできていない。していない。しようと思えない。夏休みと同時に実習準備が始まり、実習に行き、終えると、教師(講師でも)は確かに楽しいけれど、自分はこの仕事をしてはいけないのだろうと感じた。家庭の都合で、院進の気持ちも萎んだ。自分の進路の方向を決めるという世間では当たり前だとされていることができない。当たり前のことができないのは苦しい。自分以外内定があり恋人がいる飲み会に何度か行ったが、生まれたときから境界線の向こうにいる生き物の幸せそうな顔や普通の黒目を直視できなくて、机あるいは窓外の夜を眺めていた。ずっと。そういう感情でもお酒は美味しかった。
 思い返してみれば、高三の夏からセンター二日目までは人生において一番つらかった時期だった。誰かに相談したくて堪らなかったけど、誰に相談すればいいのか、誰なら相談してもいいのか分からなくて、結局誰にも言わなかった。当時好きだった人を教室移動や廊下で見かけることだけが日々の楽しみだった。悩んでいたのは、進路を決められないことだった。進路を決められないのは、家族内で私の進学に関する意見が食い違っていたからだ。母は国公立の教育学部を望み、絶対に一人暮らしはさせないと言った。行きたい大学が自宅圏内ではないのなら、家族全員で引っ越す、と言われていた。体調的に一人暮らしができない姉からは、残念だけど春は教師になれないし、引っ越したくないから絶対に自宅圏内の大学にしてほしい、と言われていた。自分の好きなところでいいよ、と父は言った。そのうち志望校を考えるのが面倒になって、とりあえずセンターに向けて勉強してセンター利用で願書出して受かったところに通うか! というところで考えるのをやめ、好きな人が頑張っている姿を見て/想像して勉強した(キモい)。
 願書を出さなければいけないくらいの頃には、母の条件は「国公立の教育学部」から「私立でもなんでも教員免許を取得できる学部」にまで下がっていた。センター試験は、奇跡的に斜め前の席に好きな人がいて、前の席には友達がいて、ありがとう名前の順……と拝んでいたら終わっていた。
 すっかり忘れられていたと思っていたのに、最近あの日々をよく思い出す。他にもいくつか家の悩みがあった。好きな人が同じ教室にいる日本史の時間がずっと続いてほしいと思っていた。



 というところまでが、2022年の10月中旬の下書きである。noteの記事を見返しているときに見つけた。下書きというのはつまり、眠っている状態のものだ。冬眠。これから春になるのだし、公開してみようと思った。
 結局進路は院進で決まった。一月末まで本当に何も決まっていなかったが、他学科の友人が「春ちゃんも院試受けようよ」と言ってきて、それで気が変わった。必然めいたものを感じた。大学の図書館が好きというのもある。死ぬ気でやれと言われたし、死ぬ気でやりたい。あ、あと、大学に日替わりで来ているキッチンカーも楽しみだ。

 もう日付が変わり、とうとう卒業式の前日になってしまった。うわああああむりいいいいい緊張するううううううう 何に? 確かに 何に……? 走馬灯のように流れる記憶がまぶしい。いつの日か思い出せなくなる・思い出さなくなる人や 日々や 感情を、私は今どうすればいいのだろう。
 昨晩、兄に「大学の卒業式ってどんな感じだった?」とたずねた。兄はしばらく口を蛇のようにくねらせたあと、「高校の卒業式のあとはカラオケに行った。式で歌ったのと同じ歌を友達が入れて『なんで2回も歌うねん!』って言った」と答えた。
 私は高校の卒業式のあと誰と何をしたかは覚えていないが、ずっと泣いていたことだけは覚えている。好きな人に告白しようと思っていたが、させてもらえなかったからだ。賢明すぎる。中学の卒業式のあとも泣いていた。学校にいる間は悲しくなかったのに、帰り道を歩いていると、なんだか突然涙腺がちくちくと痛んだ。一緒に帰っていた友人は「泣かないの。高校はもっと楽しいよ」と笑っていた。小学校のときは全く覚えていない。本当に私という人間に、小学生の頃があったのだろうか、というくらい記憶がない。
 大学生活は本当に楽しかった。いろいろと苦しいことも多かったけど、周りの人たちはみんな優しくて面白かった。クリープハイプの栞の”ちょっといたい もっといたい ずっといたいのにな”が繰り返し流れる。誰の顔を浮かべても。
 幼稚園は後半不登園、小学校は休みすぎて内申に響いて中学受験ができない、中学は月に一回以上休む、という感じだったのに、高校大学はほぼ休みなしで通えてたのすごすぎる 毎日、次の日が楽しみだった ありがとうございます

 みんなの新生活を応援したい。

いいなと思ったら応援しよう!