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それが落ちたら

 それが落ちたら、と佑真は切り出した。風もないのに「それ」はゆらゆら揺れている。心臓から血を送り出す拍動のせいだろうか。胸が痛い。

 線香花火をするためにやってきた近所の川は、雑巾を絞ったあとのバケツのように濁っているし、どんぶらこ、どんぶらこ、とゴミが流れてくることもある。橋の下で雨をしのいでいるホームレスや、高校生らしき男女が草むらと同化しているのを見たこともあった。それが心配ではあったけれど、私以外に人の影は無さそうだ。草の無い適当な場所にしゃがみ、最後かもしれない思い出づくりの準備を始める。

 佑真との出会いはありきたりなものだった。距離が縮まったきっかけや二人で過ごした毎日は、どこを切り取ってもありふれている。けれど、それが他の何にも代えられないくらい幸せなのだということを、あの頃の私は知っているつもりで知らなかったのだ。

 ガサガサと音を立て、花火をレジ袋から取り出す。火の準備をしている私の隣で、佑真は遠くの山を見つめている。少し迷ってから、声を掛けた。肩に触れる勇気は無かった。


 家から持ってきた残り物の花火の中には、炭酸の泡のように弾ける手持ち花火もあった。火をつけながら、これすごいんだよ、と佑真に見せる。振ってから蓋を開けた炭酸飲料が爆発するように、白い火花が散る。それがあまりにも眩しくて、私はきゅっと目を細めた。「すごいね」と呟く佑真の目は、一瞬たりとも見逃さないとでもいうように大きく見開かれている。
 ふと「最後」の二文字が頭を過ぎった。

 永遠だと思っていた日常は、何の前触れもなく突然壊れた。佑真が交通事故に遭ったのだ。大型トラックが歩道に突っ込み、たまたまそこを歩いていた佑真が巻き込まれた。その日の私は朝から晩までバイトのシフトが入っていて、日付が変わる直前になってそれを知った。
 葬儀の日は大雨だった。灰色の重い雨に打たれながら、おぼつかない足取りで会館へ向かう。誰か分からないほどぐしゃぐしゃになったらしい佑真が、名前も知らない花々に埋もれて眠っている。
 最後なのに、直視することができなかった。
 眠れない夜が続いた。佑真がいなくなった日から四日ほど経った日の夜、ふらふらの私の前に佑真は現れた。
「おれ、まだ死んでないよ」
 その姿は、事故に遭う前の佑真らしい佑真だった。目をごしごしと擦る私に、佑真は「信じられないよね」と苦笑する。
 幻覚でも幽霊でもよかった。会話は成り立つし、手も足もある。少し透けていて触れられないけれど、それでもいいと思えた。佑真が帰ってきてくれるのなら、どうだって。
 薄茶色のカーペットに座って、佑真は人差し指を立てる。
「人は二度死ぬ、って話、聞いたことない?」
 首を横に振る私を見て、佑真は続ける。
「一度目は肉体的な死。二度目は、忘却の死」
 そう言って、佑真は私に近づいてきた。ふわり、と懐かしい匂いが微かに鼻をかすめる。とうとう鼻までおかしくなってしまったのだろうか。
「楓のおかげで、おれはまだ生きているんだよ」
 その言葉を聞いて、心の奥底から熱いものがこみ上げてきた。それが佑真の慰めだということは分かっていた。私の気持ちが足枷になり、進めないのだということも。
 それを見透かしたように、佑真は笑う。
「死ぬのは怖いじゃんか」
 佑真の手が私の肩を撫でる。……それは温かくも冷たくもない、ただの空気だった。

 そうして再開された二回目の日常が、今夜でちょうど四十九日目になる。本当の最後が近づいているということに、私はうすうす気付いていた。
 佑真は決して口にしなかったけれど、それは目に見て分かることだった。日に日に薄くなっていく輪郭、掠れていく声、透けていく爪先。
 ひょっとすると、佑真は空に溶けるのではないだろうか、と考える。私は佑真を忘れないのに。
 ずっと、覚えているのに。

 火がつくと、線香花火はぷくりと膨らんだ。パチパチと散る火花は夏の結晶だと思う。
 一本目の線香花火は、風が吹いてぽとりと落ちてしまった。火がついた二本目も、お腹辺りがぷくぷくと膨らんでいく。そのときだった。
 それが落ちたら、と佑真は切り出した。風もないのに「それ」はゆらゆら揺れている。心臓から血を送り出す拍動のせいだろうか。胸が痛い。息が苦しい。
 私はこの先の言葉を知っている。耳を塞ぎたい衝動に駆られるけれど、右手に持っている線香花火のことを思い出す。これが落ちたら。
 最後だというのに、佑真はあっさりと続ける。
「終わりにしよう」
 佑真の瞳には、今にも泣き出してしまいそうな私が映っている。佑真と、空と、線香花火の輪郭が滲んで混ざる。みるみるうちにぐちゃぐちゃになっていく。

 あの日から一ヶ月と少しが経ち、人々はようやく元の生活に戻り始めていた。私もそのうちの一人ではあるけれど、それは違う。佑真がそばにいてくれたからだ。
 けれど、佑真のことが好きだから、私はゆっくり頷いた。
「楓はもう大丈夫だよ」
 子どもをあやすように、佑真は微笑む。頭を撫でられているはずなのに、何も感じられない。どうにもならないそれが、どうしようもなく悲しい。
 大丈夫じゃないよ、本当は。ずっとあなたと生きていきたかったよ。
 溶け始めている佑真に向かって、私はもう一度頷いた。


 それが落ちる。



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