香水
暗い。
切れかかっている電球の真下が、この部屋でのわたしの定位置だ。灰色の敷き布団の上。大抵は仰向けに寝転んで、邪魔だと蹴られるまでそこを動かない。優吾の足がわたしの体に当たれば、アオムシみたいに少しだけ移動する。それを見た優吾が「気持ち悪い」と呟くまでが、わたしたちの日常だ。
「あ、まって、優吾」
「……なんだよ」
優吾が面倒臭そうに振り向く。わたしはそのぶっきらぼうさにときめいて、分解して、消化する。たまにむせてしまっても、この人はそれを見なかったふりをする。それでいい。わたしはそんな程度で優しくならない優吾が好きなのだ。
優吾の親指の付け根のところを触りながら、わたしはたった今思いついたことのように尋ねる。
「また香水(おんなのひと)変えた?」
甘いバニラの香り。一昨日まではバラ園みたいだったのにね、と、詰る。その前は安いホテルのシャンプーの臭いに包まれていて、どうにも気持ちが悪かった。バラ園もラブホも行ったことはないけれど、想像はつく。百均程度の思い出なんて無価値じゃん、わたしとタダで作ろうよ、なんていう告白こそ安く、ずっと言葉にできないままだ。
優吾の浅く短いため息が、わたしを僅かに委縮させた。
「怒ってんの?」
怒ってるのは優吾でしょ、と言い返す勇気は出ず、わたしには彼を肯定することしかできなくなる。そういうところも好きなのだと思っているけれど、それでも少し泣きそうになる。
「からかっただけじゃん」
やさしくやさしく、宥めるように返す。そういう流れで頭に触れようと手を近づければ、やめろよ、と手を払いのけられた。優吾の境界はよく分からない。指はいい、背中はいい、お腹くらいならいい。よく分からないそれを掲げて、それに頷くことしかできない、わたしたちはばかみたいな関係だ。
わたしと優吾は幼馴染だ。親同士の仲が良いだけで、わたしたちの波長が合っていたわけではないけれど、なんとなく似たように生きてきた。
きっかけは浮気だった。高校二年のとき、わたしの彼氏と優吾の彼女のそういう現場に、たまたまわたしと優吾が居合わせてしまったのだ。あのときのことを一言で振り返るとすれば、唖然。視界と脳みそが上手く連携してくれなくて、全部理解してしまったはずなのに、何も分からなかった。目を逸らすように、わたしたちは手を繋いだ。つめたくて死人みたいな手を重ねた。
その日から始まったふたりの自暴自棄に、わたしたちは未だ抜け出せないでいる。利害の一致だと言って、わたしから抱きついた。優吾はわたしを突き放さない代わりに、決して受け入れようとしない。それでもいい。なんでもいい。ただ、優吾の暇つぶしになりたかった。
溢れそうな涙の粒をなんとかしようと、無理やり笑う。口角を上げる。部屋の暗さに慣れた目で、触れられなかった優吾の髪を見つめる。どうしてこんなに一方通行なんだろう。
「……その笑い方、キモ」
目を細めてわたしを笑う優吾が、愛しい。
「なんで」
「そんな笑い方しねえじゃん」
いつもは、と付け加えられ、この人の『いつも』にわたしが存在しているのかと驚く。わたしの日々に優吾はいるけれど、優吾の日々にわたしはいないと思っていた。こんな些細なことで幸せになってしまう。けれどわたしはそれを抑えて、優吾の息に合わせる。ふたり、同じ速さで息を吐きたいのだ。
「いつもしてるし」
「見たことねえわ」
親指の付け根の骨の硬いところが、優吾の体で一番好きだ。というよりは、それ以外をよく知らない。わたしたちの間に行為は無い。
しょうもな、と言いながら優吾の口角は上がっている。部屋に男女がふたりきりで、寝転んでいて、悪くはない雰囲気で、どうしてわたしたちはそれ以上になれないのだろう。
充満している臭いのせいだろうか。
「今してるじゃん、ほら」
ほら、と言いながら、顔を見られないように、優吾の枕に顔をうずめた。
汗の匂いがわたしを満たす。
『いつも』って、あんまり学校で喋らないじゃん、と言おうとして、やめた。わざわざ話す必要あんの、と言われてしまいそうで怖かったからだ。無いよ、必要。たぶん、そう言い返せてしまうだろう。
なのに思考は止まらない。その処理も追いつかない。いやだいやだいやだ。心でぽつりと呟くつもりが、間違って心の外へ飛び出してしまう。
「……もういやだ」
「……」
今度は無言だった。優吾は無言で、わたしの背中に触れる。一人分の温もりが、服の上から確かに伝わってくる。
好きとか、嫌いとか、わたしたちはそういう関係に縛られない。幼馴染だから違う、とずっと言い訳をしてきたのだ。クラスメイトにお似合いだとからかわれたときも、優吾が小さな折り畳み傘に入れてくれたときも、言葉では言い表せないくらいに嬉しかったのに。本当は、どんな香水も臭いのに。
行き場のない感情が、枕に滲んでいくのがわかった。優吾の部屋に、ゆっくりと静かに侵食してゆく。沈黙に心地よさを感じられるのは優吾だけだ。けれど、今日は何かが違っていて、少し息苦しい。宇宙みたいな苦しさだ。宇宙へ行ったことは一度たりともないけれど。
一定のリズムで背中を撫でられ続け、再確認する、というよりは気付かされる。わたしと優吾は、幼馴染だ。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、優吾の携帯の着信音だった。部屋に響く初期設定のそれは、六度目で鳴り止んだ。指を折って数えていたわたしとは対照的に、優吾は一度も、目を向けようとはしなかった。
「……いいの?」
踏み込みすぎないよう、少し控えめな口調で尋ねる。優吾は「あー」と頭を掻いた。
「まぁ」
いいだろ、と続く言葉は無い。再び沈黙に呑み込まれそうになったけれど、今日の無言はどこか落ち着けないから、無理やりにでも言葉を繋げる。
「バニラの人?」
優吾の手が止まる。
「別に」
そのまま、わたしから離れてゆく。
「別に、なに?」
わたしの問いには答えず、優吾はごろりと姿勢を変えた。甘い香りが遠ざかる。バニラなんて似合わないよ、と言ったって、きっと優吾は何も変わらない。優吾の手は大きくて、温かい。わたしのための手であってほしいし、それが一度きりでいいなんて思わない。
「今の人、好きじゃないの?」
「うるせぇよ」
優吾は体を起こし、携帯を手に取った。何やら操作をしているけれど、わたしの定位置からは見えそうにない。急に面倒になった優吾が、周りの女の連絡先を全部消して、でもわたしだけは残っていたりしていないだろうか、と妄想に耽る。余計なことを聞かないと、本音を言ってしまいそうだった。
優吾、ゆるして。
口には出さないけれど、わたしは優吾に対してゆるされたい気持ちがあった。謝らなければならない具体的なことがあるわけじゃなくて、ただ、ゆるされたいだけ。ゆるしてほしいだけなのに、いつも素直になれなくて、遠まわりで、うまくいかない。
「優吾にはね、バニラもバラも似合わないよ」
本当は、安っぽいシャンプーも。
「はぁ? ……なんだよ、急に」
意味わかんねえ、と唾を吐いた。悪態をつきつつも、優吾は言いづらそうに告白した。
「……確かに、バラは合わなかったな」
電話に出ない理由も、バニラの話を避けたがる理由も、ぜんぶぜんぶわたしだったらいい。ばかみたいな関係から抜け出して、もっと少女漫画みたいな、かけがえのない幼馴染になりたい。
「わたしは無臭だよ」
「あー。確かにあんまり匂わねぇな」
それは優吾が纏う香りが強いだけだよ、と思った。心に溜めているものは言わないで、ずぶずぶとわたしの内へ沈める。そういう癖みたいなものを、いつだったか、優吾が気付かせてくれた。今よりもっと、子どもだった頃の話だ。
「優吾はどういう匂いが好きなの?」
無臭って言って。たぶん、他人に期待なんてするものじゃない。してはいけない。それがマストノットであることをわたしはちゃんと分かっていて、だから伝えはしないのだけれど、時々うっかり口を滑らせてしまいそうになる。
優吾は少し考える素振りを見せてから、独り言のように呟いた。
「……夏」
「夏?」
「みたいな」
抽象的すぎる。たとえば、とわたしは聞き返す。優吾はいつもより少し穏やかな声で話し始めた。
「中二のときさ、俺、お前に水かけたじゃん」
中学にも慣れて、まだ受験のじゅの字も頭になかった中学二年生の夏休み前日。わたしと優吾は同じ掃除の班で、中庭の大掃除担当だった。ホースの長さを最長にして、花壇に水をかけるという名目でわたしたちはふざけ合っていた。最初はただその様子を見て笑っているだけだったけれど、優吾がわたしにホースを向け、最終的にわたしも一緒に怒られることになってしまった。
あの頃は、クラスが同じなら宿題を見せ合っていたし、クラスが別なら教科書を貸し合っていた。毎日練習があるサッカー部の優吾と、月水金が活動日だった音楽部のわたしは、テスト前だけ二人で帰っていた。わたしの『好き』も優吾の『好き』も、指し示す方向は違えど二人とも一直線で、淡かった。
優吾は今、とても優しい目をしている。たぶん。
「あのときの、夏、みたいな匂いが、忘れられねぇんだよ」
きゅっとシーツを握る。ねえ、あのとき、好きだった人の裏切りを見てしまったとき、隣にいたのがわたしでよかった? あのとき、自分がどんな表情をしていたか、忘れた?
聞いてしまいたい。けれど、頭の中で聞いてしまうという妄想をすると、どうにも嘔吐みたいで駄目だ。嘔吐のあとのあの独特の気持ち悪さがこみ上げてくる。
「優吾に似合うの、知ってるよ」
嘔吐する代わりに、わたしは口呼吸をはじめた。優吾の臭いを吸い込まないように。
「夏だろ?」
「それは優吾が好きなやつじゃん」
好きと似合うは違うよ、優吾。自分がいちばん分かってるくせに。詰ってしまえば、詰ることができたら、少しは気が軽くなるかもしれない。
そうじゃなくて、と続ける。
「優吾は汗のにおいが似合うよ」
ずり、と寝返りをうつ。服とシーツが掠れる音。暑くて蒸し暑い場所。
優吾の日課の生理的現象。
「……風邪ひくぞ」
いきなり、優吾がわたしに毛布を被せてきた。優吾は優しい。知っているのは、わたしだけでいい。誰も気付かなくていい。
たぶん、この先も優吾は何回も香水を変える。何十年間、ずっと、甘い香りを放つ。だれのものにもならないでよ。何百回、何千回と朝晩祈り続けても、わたしは優吾に好きと言わない。触れられなくても。
優吾の頭を、髪の毛の先を見つめる。……あ、枝毛。
「……もう泣くなよ」
無意識のうちに涙が垂れていたらしく、優吾はわたしの左頬に手を遣り、また優吾を好きになる。
それでもわたしは好きと言わない。