なにもしない日

 湿った部屋の隅で、私は決心する。ベッドの下には酒缶が転がっていて、それから流れ出た甘ったるい液体が水たまりをつくっている。逃げるように目線を移せば、ベランダに散乱している洗濯物が視界に入った。散乱、ごちゃごちゃ、面倒臭い、といったフローチャートが脳内に浮かび、無意識にため息が漏れる。
 けれど、私はそれを片付けようとも、掃除しようともしない。
 決めたのだ。今日は「なにもしない日」にする、と。

 面倒なことはなにもしない。自分がやりたいことだけをする。まず、私はテレビのリモコンを手に取った。
 電源のボタンの表面を優しくなぞって、どうしようか、押してみようか、と考える。押してもいい、押さなくてもいい、押してすぐにもう一度押してみてもいい。連打。選択肢は山ほどある。
 苦手な先輩がよく口ずさんでいる曲を口ずさみながら、サビが始まるリズムに合わせて電源ボタンを押す。ぷちっ、と、何かが切れるような音がして、テレビがついた。少し前に、好きな子が「推し」だと言っていた俳優が映る。わあ、わあ、と大袈裟なリアクションを取りながら、艶のあるプリンに頬を落としている。気が付けば口内に溜まっていた唾液を飲み込むのと同時に、私はテレビを消した。
 だめだ、なにもしている。テレビをつけて、「推し」に嫉妬して、プリンが食べたいと思っている。「自分がやりたいことだけをする」というのは「なにもしない」とイコールにならないのだ。それに気付いた私は、部屋のど真ん中に寝転ぶ。今度こそ、絶対になにもしない。


 玄関のチャイムが鳴り響いている。なにもしない。先週購入した傘が届いたのだろうか、と思うけれど、なにもしない。あの傘、くらげみたいでかわいかったな。なにもしない。そういえば今日は風が強い。なにもしない。窓に当たる強風の音に驚いて、思わずそちらを見遣る。すると、空が紫色に染まっているのが見えた。えっ、という声が口から漏れるけれど、私は、なにもしない。
 初期設定の機械的な着信音が流れる。もちろん、なにもしない。たとえここに隕石が落ちてこようと、なにもしないつもりだ。水の流れのように、起こる事象の全てに身を任せる、そのつもりだった。
 それなのに、ふと、あの横顔が頭を過ぎってしまった。
 なにもしない、と頭で唱えながら、鳴り止まない携帯を手に取る。画面に表示された『佐野』の二文字が、私の胸をぎゅうと締めつける。なにもしない、これはなにもしていない。そう唱えながら、通話ボタンを押した。
 甲高い声が耳を劈く。佐野はいつだってうるさい。声量だけではなくて、表情が、身振りが、絵文字が、どうしようもなくうるさい。卒業式も、焼香も、面接も、彼女はずっとうるさい。私は佐野のそういうめちゃくちゃなところが好きなのだ。世界で一番、シュークリームよりも。
『林はさ、今何してんのー?』
 そう言って、佐野は世界のどこかで笑う。
 言葉にすると馬鹿みたいだな、と思いながら答える。
「……なにも」
『うわっ。林っぽい! ネクラ!』
 受話器から商店街特有の声かけが聞こえる。今、佐野は外にいるらしい。ねくら、と動いた佐野の口を想像して、少し、耽る。
「うるさいな、切るよ」
 うん分かった、と言われれば困ってしまうのは自分なのに、私は上手に素直になれない。たぶん、ねくらだからだ。
『わー! 聞け、ネクラ!』
「あーあーうるさーい」
 と、言いながら、私は次の言葉を待っている。佐野の声を、私の全身がぎゅるぎゅる欲している。
 息を呑む。
『林滅亡の日くらい、一緒に過ごそうよ』
 待ってました、とは言えず、その喜びを最小限に抑えて返事をする。
「いいよ」
 私も一緒にいたい。
「てか、佐野も滅亡するじゃん」
 にへへ! と笑い声が聞こえて、私は、今日という日を忘れてしまいそうになる。私の、佐野の、世界中の人類の命日を。
『一緒に滅んじゃおう』
 電話の向こうで、佐野が歯を見せて笑っているのが分かった。
 待ち合わせ場所を決めて、私は電話を切る。急いで顔を洗って、タンスを開けて、佐野の好きな紫色の服を選ぶ。一番綺麗な私になるのだ。
 佐野に会ったら、最後くらい素直になってみようか。鏡の向こうの自分とにらめっこしながら、私はふとそういうことを考える。佐野! 好きだ! なんて、世界の真ん中で叫んでみようか。妄想の中の自分が、少しだけ可愛く思えた。
 最小限の宝物を鞄に詰め込み、帰らないつもりで家を出る。携帯のアラームが鳴ると、二十秒後に隕石が落ちて来て、世界が滅亡するらしい。私と佐野の逢瀬をアラームなんかに邪魔されてたまるか、と、置いてきた携帯のことが少しだけ気がかりだった。佐野のことだから、迎えにきて、という連絡を入れてくるかもしれない。
 いつもの駅に着き、きょろきょろと辺りを見渡す。佐野はいない。大抵、佐野は五分後行動だ。そういうところも好きだ。
 腕時計を確認すると、まだ十五分も前だった。佐野に会いたいという気持ちだけで行動していて、全く時計を見ていなかった。仕方なく腰を下ろした駅前のベンチで、私は、ずっと佐野のことを考える。
 佐野を待つ時間は好きだ。ねくらだから、こういうどうしようもない片思いも好きなのだ。
 高校の頃から、佐野は私の唯一の友達であり、私は佐野の唯一の友達だった。友達を失いたくなかったし、友達を失わせたくもなかった。佐野の愉快で楽しい学園生活は、私が守ると決めていた。
 今日、その決心は大きく揺らいでいる。伝えなければ無かったことにできるはずだった感情を、世界滅亡の日に、わざわざ、告白。最後まで佐野を守りたい気持ちと、最後くらい自分を大切にしてみたい気持ちが入り混じる。ぐちゃぐちゃ。べちょべちょ。口から吐き出た泥のようなそれを、右足で踏み潰す。佐野、好きだよ、世界で一番。

「はっやしー!」
 後ろから、ずっと待ちわびていたあの甲高い声が聞こえる。佐野の声は蝉に似ている、と、ふと気付く。
 私は立ち上がり、最良だとかを選ぶ余裕もなく叫ぶ。
「佐野!」
 そのとき、世界中がけたたましいアラームの音が響いた。
 宇宙の目覚め。隕石。世界滅亡。佐野。駅前の人が動きを止め、それは佐野も例外ではなかった。
「好きだ!」
 ところが、私の口は止まらなかった。
「好きだ! 大好き! 愛してる!」
 呆然と立ち尽くしている佐野を見て、私は走り出す。もうすぐ世界が終わるというのに、好きな人を目の前にしてなにもしないわけがない。
 私は止まらない。佐野を抱きしめる。平熱が三十五度台のはずの佐野が熱くて、あれ、と思う。にへへ、と声が聞こえる。
 私は止まらない。
 隕石も止まらない。

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