ひまわりは光の方を

 この教室はいつも真昼間だ。太陽のような青年、森崎光のまぶしさで、里恵の目はすっかりやられてしまった。
 里恵の席は、黒板から見て右端の一番後ろにあった。そのおかげで、里恵は光を直視することができる。笑ったときにちらりと見える白い歯、薄くなる唇、陶器のように滑らかな鼻、ガラスペンでなぞったような輪郭の指。
 話せなくていいし、話さなくていい。見ているだけでいい。脳みそまでやられてしまっている里恵は、光と目が合うだけで嬉しいのだ。
 里恵には日課があった。通学路に咲いている数本のひまわりを眺めながら、その日の光の眩しさについて、想いを馳せるというものだ。里恵は、ずっと光のことを考えている。文字通り、朝目が覚めてから、夜眠りにつくまで。
 きいろい花弁は瑞々しく、筒状花も元気そうにまっすぐ伸びている。ひまわりは太陽を追いかけるのだと知ってから、里恵はこの植物に親近感があった。夕日に照らされ燃えているようなひまわりを見ていると、勇気づけられるものがあるのだった。


 生物教師の太田が「これは余談だけど」と切り出した。新品のチョークなのだろうか、黒板を叩く音が、いつもより大きいような気がして、里恵は黒板へ視線を移した。
 余談好きの太田は、細胞の単元であるにもかかわらず、黒板に顔のある太陽と人の絵を描いている。小学生の絵日記のような出来に、教室には笑いの渦が起こる。太田も同じように笑ってから、絵について話し始めた。
 クリュティエ―という水の精霊が、太陽神であるアポローンをたまらなく好きになったが、アポローンはクリュティエ―に見向きもしない。クリュティエ―は食べることも飲むこともせず、他のものには目もくれず、ずっとアポローンを見つめていた。それで、とうとう、手足は根になり、いつも太陽を追いかけるひまわりになってしまった。
 太田の余談は、ギリシャ神話の紹介だった。教室の反応は様々で、アポローンが非情だと言う生徒もいれば、クリュティエ―の一途さは怖いと言う生徒もいた。
 里恵は、通学路のひまわりを頭に思い浮かべながら、悲しい話だと思った。ふと、いつもの癖で光を見遣ると、周りの席のクラスメイトと、眉尻を下げつつ笑い合っているのが見えた。

 まぶしい。

 そのとき、里恵は、光の太陽らしさに改めて気がついた。目の奥に鈍痛が走り、顔ごと光から逸らした。太陽は直視してはいけないのだということを、思い出した。心臓の拍動の煩さを落ち着かせるために、机に突っ伏して、寝たふりをする。今日習ったばかりの細胞膜のことを思い出す。耳の中に心臓があるのではないかと思うほど、脈を打つ音が耳孔に響く。それなのに、頭だけはずっと静かで、ずっと不安だった。
 私も、ひまわりになるのかもしれない……。
 手足の爪先から根が生え、顔の中心、鼻からぶわりと筒状花が広がり、頭皮の毛穴からはつるりとした花びらが押し出されるように生えてくる。自分がひまわりになる瞬間を想像して、里恵は肩を窄めた。それが良いことだとは、あまり思えなかった。
 まなうらには、誰かと笑い合う光がいる。目を閉じているのに、暗闇は昼間のように明るかった。


 話したいことがあるから、放課後、掃除が終わったら、教室に来てほしい、という旨の手紙を、里恵は確かに光の机に入れた。教科書を置いて帰っているらしく、中は想像より汚かった。手紙は、一限で使う英語の教科書に挟んだ。今日はUnit7の練習問題からはじまるはずだった。
 一日中、里恵は落ち着きがなかった。放課後のことを考えて、頭の中で、シミュレーションを繰り返した。友達になりたい、と言おうと思っていた。見ているだけで、目が合ったような不確かさだけでよかったのに、今はそう思えなくなっていた。
 里恵は教室の、光は南棟一階のトイレ掃除だった。トイレ掃除は、担当の先生の見回りがあった。適当にやっていたり、トイレットペーパーを補充していなかったりすると、やり直しになることがある。
 だから、時間がかかっているのだと、からっぽの教室で、里恵は自分を励ましていた。百均で買ったてのひらに収まるサイズの鏡で、前髪を整えていた。

 いくら待っても、光は来なかった。夕日が射し込む教室で、里恵はぼうっと立っている。時計を見ることはなく、ただ夕日の方を見つめている。待つことが不安になってきたら、目を閉じる。そこには光がいて、里恵の夜を照らしている。そうして、また大丈夫になったら目を開け、夕日を見つめる。


 その姿は、まるでひまわりのようだった。

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