破壊された月
「速報です」
リモコンに触れてすらいないのに、バラエティ番組がニュースに切り替わった。やけに大きなフォントサイズのテロップより、女性アナウンサーの真剣な眉に見入ってしまい、家族の誰よりも反応が遅れる。月が、破壊されたらしい。
時刻は午前七時四十二分。バターとジャムを塗りたくった食パンを齧り、テレビを眺めている。月が消えたのなら、今日の数学も消えてなくなればいいのにな。そういうことを考えている。画面の向こう側で騒いでいる大人たちも、箸を落として慌てふためく親たちも、私とは別次元に生きている。
空間ベクトルは難しい。そもそもベクトルが何なのかすらよくわかっていないのに、上澄みだけの理解で空間ベクトルを解かせようということが無理難題なのだ。
壁に掛けてあるカレンダーが目に入る。今日は十四日で、私の出席番号は十四だ。あーあ、ツイてない。最後の一口を飲み込み、室温の麦茶で喉を潤わせてから立ち上がる。五十分。そろそろ家を出なければ、いつもの電車に間に合わない。
リビングを出て行く私に気付かない家族に、私もわざわざ声を掛けなかった。きっと今、あちら側の世界の住人は皆、映されている破壊された月の破片に釘付けになっているのだろう。足を入れたローファーが少しだけ冷たく感じた。
八時二分の電車に乗り込む。電車は十分置きにやって来るのだが、私には全力ダッシュをしてでもこの電車に乗る理由がある。先輩がいるからだ。
先輩はいつも、左手でつり革を握り右手で小説を持っている。そばに駆け寄ると、先輩は本を閉じる。
「おはようございます。今日は何の本ですか?」
「おはよう。推理小説」
それだけ言って、また本を開く。先輩は言葉足らずだ。会話を広げさせようというつもりがないのだろう、話はまったく続かない。読書の邪魔をするわけにもいかない。仕方なく私もスマホを弄る。
そうやって、十五分ほど横に並んで電車に揺られる。そういう毎日だ。月が破壊されようと、今日が十四日だろうと、それは何も変わらない。私と先輩は同じ世界に生きている。
最寄り駅に着いて、先輩と私は電車を降りる。降りてから先輩の足取りはどんどん重く遅くなり、いつの間にか他人のような距離をとられている。いつものことだから何も言わないが、寂しい気持ちに慣れることはない。気付かれないように、少しだけ歩幅を狭める。
先輩は気付く。先輩の一歩が小さくなる。私たちの距離は変わらない。
放課後、先輩はいつもの定位置に居た。部室棟三階の物置のような語学部の部室の窓際にあるパイプ椅子、それが先輩の定位置なのだ。部長である先輩以外は座らない、いわば王座である。そこに腰を下ろしている先輩の首元の翳りが好きだ。夕暮れの教室でふたりきり。最高の部活動である。
菓子パンを頬張りながら、先輩は小説を読んでいる。朝、電車で見たものとは異なる表紙だ。挨拶がてら、私は先輩に話しかける。
「お疲れ様です! 何の本を読んでいるんですか?」
「お疲れ様。青春小説」
へえ、と思わず声が漏れる。先輩もそういうの読むんだ、知らなかった。
私は私の世界に起こり得ない別世界の小説が好きだ。高校生で永遠を誓い合うとか、魔法が使えたりだとか、宇宙の話も好きだ。文字を通じて触れる知らない世界は、新鮮で、どきどきして、楽しい。
先輩が読んでいるものなら、と私は先輩に小説の題名を訊いた。先輩は短く答える。
そして、ややあってから先輩は小説を閉じ、私の頬骨の辺りを見つめて言う。
「きみはさ、……なんで俺と話すの」
先輩は私を名前で呼ばない。覚えていないのか、そういう人なのか。後者であればいいと願う。
どうして先輩と話すのか。過ぎった不安を消し去るように、私はいやに明るい声を出す。
「決まってるじゃないですかー!」
一拍置いて、
「部活の先輩だからですよ!」
へんな先輩、と笑えば、先輩もぎこちなく笑う。一歩も進めなくても、今が私にとって何より大切な時間なのだ。私は目を細める。視界の真ん中にいる先輩の肩が、ぎこちなく揺れている。なんだかとても満たされたような、幸せな気持ちになってきた。不器用な先輩。そういうところも好きだ、と思う。
帰りも私と先輩は同じ電車に乗る。改札口まで一定の距離を保ち、階段を上りきったところで私たちは横並びの関係になる。関係、といっても、ただの先輩と後輩だけれど。
電車を待っている間も先輩は本を読む。部室で読んでいた青春小説は既に読み終わったらしく、また別の表紙になっている。朝と放課後と同じように訊けば、やはり同じように単語だけが返ってくる。推理小説。題名を訊く。単語。覚える。電車が来る。
電車に揺られている十五分間、先輩はずっと小説を読んでいる。その横顔を見続けていたいのだが、そういうわけにもいかず、私はスマホを弄る。そこに会話はない。けれども世界はある。私と先輩の放課後は続いている。
私の最寄り駅に着いた。「じゃあ」と言って降りようとしたとき、ぐい、と先輩に右腕を掴まれ、振り返る。
驚くのは私の方のはずなのに、何故か先輩が一番驚いた顔をしている。目はまんまるだし、口もぽかんと開いていて。普段のクールな先輩からは想像もできないような表情だ。
すぐにするりと離され、よくわからないまま、何事もなかったかのように私はホームに降り立つ。動き出す電車の中で、先輩はぎこちなく笑っている。笑うしかないように、笑っていた。
夕食はオムライスだった。ケチャップじゃなくてデミグラスソースがいい、と駄々をこねる妹を横目にテレビをつける。話題の女優や俳優が塾講師に挑むというクイズ番組が放送されていた。面白いようなつまらないような、私は殆ど癖のようなものでスマホを見る。充電は残り十七パーセントだった。
ソファの上にある、スマホの充電コードを取りに立ち上がったちょうどそのとき、テレビの画面がパッとニュースに切り替わる。先輩に似た顔の人が映って、私は息を呑んだ。
他人の空似でもなんでもなく、先輩が映っていたのだ。
「速報です。月を破壊した疑いがあるとして、二十代男が書類送検されました」
先輩のフルネームが読み上げられる。字幕の漢字も先輩と全く同じだ。
「男は、間違いありません、と容疑を認めており――」
女性アナウンサーの声が耳を劈く。足の力が抜けていくことはなかったが、自分の二本の足だけで支えるには上半身が重く感じる。
先輩が車に乗せられている映像が流れる。私はそれを見つめている。泣くことも、声を荒げることもできない。先輩は小説を読んでいるときの、あのいつもの表情で静かに座っている。
一瞬、先輩がカメラの方を見た。目が合ってどきりとする。私に見られているのをわかっているかのように、先輩は口角を上げる。そのぎこちなさを見て、私はようやく涙を零した。