余地/遠さ
余地
死んだら、溶けて消えちゃうんやって。
雪じゃん。ほとんど。
私もそうなりたいな。
六月の放課後、十一号館の上のベンチで、私たちは将来の不安を語り合っていた。内定が出ないとか、最終面接までいけないとか、そういう一般的な大学四年生の正常な苦しみではない。私たちが抱えているのは、このまま生き続けてどうなるんだろう、という特別で曖昧な苦しみなのだ。
訥々と吐き出す彼のそれは、雨のようだった。
でもさ、それってちょっと怖くない? だって、水に溶けちゃうんでしょ。そしたら分かんないじゃん。目に見えたら避けられるけどさ。海水に、くらげの死体が混ざってるかもしれないって……
怖いけどねえ。と、彼は続けた。床を眺めている彼の薄いまぶたを、じっと、気付かれないように見つめながら、私は頷いた。相槌ではなく、肯定の意味で。本当は、永遠に生き物と交わる術をもつくらげの死に方は、ロマンチックだと思う。
ふと床を見ると、蛍光灯に照らされたふたつの影が、溶け合っているように見えた。
*
それからも、私たちはたびたび互いの薄暗さを共有していた。放課後や、休日や、真夜中に。しかし夏休みに入ると、彼からの連絡は途絶えてしまった。何を送っても返事はなく、既読もつかない。ときどき彼はそういう状態になる。私にできるのは、待つことだけだった。そのあいだ、私のからだをめぐる水は灰色の泥のように濁った。
なんとなく海へ行こうと思い立った朝、彼から連絡があった。自分のことで精いっぱいになっていて、私のことを考える余地がなかったらしい。なにひとつうまくいっていない、とも書かれていた。私はその連絡が、嬉しくて悲しくて少し面白かった。
海は、相変わらず大きかった。裸足になり、海へ入った。ふくらはぎのあたりまで浸かってみる。日が照っているからか、想像よりもつめたくなかった。足の裏が踏む砂はやわらかくて、指を動かすと気持ちいい。ずぼり、と砂へ突っ込んだ足を、勢いよく引き上げる。足の甲から、砂がざざっと落ちていく。そうしていると、くらげの話を思い出した。それまですっかり忘れていたのに。
目を凝らしても、くらげの死体は見えない。右手も浸けて、透明な水をかき混ぜる。海を掬う。砂の上で足踏みをする。貝殻のかけらを拾い、遠くへ投げる。そのどこかで、くらげが死んでいますように。目に見えるものがすべてではありませんようにと、祈りながら。
遠さ
エントランスまで見送ろうかと言うと、月子は「いいよ」と僕を押し退けた。つめたい声ではなかったが、てのひらはじっとりと濡れていた。映画なら、ここで暗転するだろう。
かかとのへこみを直しながら靴を履き、がちゃがちゃと鍵を回し、月子は出て行った。残り香のない春風のように。僕はそれを、ぼうっと眺めていることしかできなかった。
昨夜、月子が家に来た。面接の手応えがよくなかったらしく、仄暗い夜の目をしていた。家にあるなかでいちばんふかふかのタオルを手渡して、風呂に入るよう促すと、月子は萎んだ風船のような足取りで、浴室へ向かっていった。そのあいだに、ファブリックミストをカーテンやベッドへ吹きかける。ボトルには「春の港町の夕暮れの匂い」と書かれている。僕たちの住む町から、海は見えない。僕に引越しの予定はない。けれど、たぶん、月子は行ってしまうのだろう。海の見える街へ。
風呂上がりの月子は、肌を火照らせて、僕のベッドに腰掛けた。僕は床に座り、月子の話に相槌を打ち続けた。そういうマシーンだ。就職のこと、実習のこと、恋愛のこと。相槌マシーンの僕は、月子の望む言葉を吐き出せない。
「あーちゃんはどうなの、最近」
月子は、僕を「あーちゃん」と呼ぶ。ゼミにも「あおい」がいてややこしいから、らしい。今は慣れたが、はじめは複雑な気持ちだった。かわいらしいものは苦手だし、僕には似合わないから。
「就活とか、ちゃんとやってる?」
曖昧に頷くと、月子は僕に向き直った。月子が動けば、シーツの波も揺れる。
「心配なんだよ、私、あーちゃんが。あーちゃんは優しいし、頭いいし、しっかりしてる。なんにでもなれるんだよ、あーちゃんさえ望めば。あーちゃんみたいになりたい、って思ってるんだよ、私」
月子の声はまっすぐだ。まっすぐすぎて、僕がどんどん歪んでしまう。凹も凸も、ぼろぼろと崩れていく。
割れた空気が気まずくなったのか、月子は「帰るね」と立ち上がった。いつの間にか、カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
玄関の鍵を閉め、部屋に戻った。女の子のからだを脱ぎ捨て、ベッドに倒れる。ぼふん、と沈む。シーツが僕のかたちを覚える。沈んでゆく。
月子の声が、何度も再生される。とめどなく。なんにでもなれるんだよ。
男の子になりたい。月子と付き合いたい。けれど僕のからだはどうしようもなく女で、月には手が届かない。触れられない。