渋谷-東福寺、金王八幡宮、氷川神社、宝泉寺、吸江寺
子供のころから20代まで。渋谷には通ったり、買い物に行ったりしたため、馴染みにある場所であったはずですが、今は渋谷に着くと、ただ迷うばかりの自分であります。
TOEIC試験で渋谷を訪れ、試験後に散歩してみようと思い調べると、あちこちに寺院があるようです。見たことのない光景。僕は、今の姿の昔の姿も分かっていないようです。
渋谷。人の祈る姿。
どこにいっても頭を深く下げ、拝む人はどこにでもいます。
結局は、祈ることしかできないときはあるのだと思います。何かに縋りたいとき、縋ることしかできないとき、ただ縋ればよい時。
頼るものを持ち、離れまいと懇願してはじめて、何かを掴み、先へと進めることもあると思います。
その日最後に訪れた吸江寺にウェブサイトを拝見すると、興味深いことがふんだんに書かれています。少し以下紹介します。
『地域と共に信仰を育んでいきたい』
『自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。 (禅とは何かの説明)』
『禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。』
仏教が生活に溶け込んだ世界に住みながら、仏教の言っていることは理解できずにいる自分。定められた価値や意味に献身することにより自己の存在をリアルな存在として確認し、他者との距離を認識できるのであれば、個人的には分かり易い。そこで、自他の距離と境界を越え、自由自在な心になってしまうと、信仰とは何なのかが僕には分からなくなってしまいます。
この文章を書いていると、それは、ただ、あまり考えずに、それは一つの生きる知恵として、祈る場所として頼る場所として利用すれば良い理解するのが正解、と思い始めました。『地域と共に信仰を育んでいきたい』と言って下さっているので、そこが頼る場所であっても良い、ということだと考えました。
そうは言っても、サイトの中に生活信条として書かれている『人間の尊さにめざめ、自分の生活むも他人の生活も大切にしましょう。』という言葉と、信心のことばにある『わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう。』という事柄を両立させるのは、個人的には難しく、理解できていないのが正直なところですので、この理解が正しいかは怪しいですが。
渋谷には、まだ、僕の見たことのない場所がたくさんあり、また、次の機会に散歩したいと思いました。